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母を殺すということ・自由について【文学】

【小説「マイケル・K」を読む】

作家クッツェー南アフリカケープタウンで生まれのヨーロッパ系白人です。

2003年にノーベル文学賞を受賞し、現在も精力的に作品や文芸批評を書いている作家です。

 

このクッツェーの「マイケル・K」という小説について「母」という観点で論じていこうと思います。この記事を読んだ人のなかで一人でも「マイケル・K」を読もうという気になったら僕の目的は達成です。

 

【物語のあらすじ】

舞台は戦争中の南アフリカのシーポイント。主人公はマイケル・Kという31歳の男です。Kは口唇裂という障害に加え、頭の回転が遅く、学校から追い出されます。他人と接するのが苦手で、一人でいることが気楽な男です。暴漢に襲われ、あばら骨を折られる事故にあった後、市役所の庭師として働いています。

 

Kは幼い頃から考え続けた「なぜ自分がこの世に生まれてきたのかという難題」に対し「母親の面倒を見るために生まれたのだ」と答えを出します。

 

Kが31歳のとき、母親が病院から退院した知らせを受け取ります。年老いた母親はふと街を出て少女時代を過ごした田舎プリンスアルバートに帰りたいと夢想します。

「どうせ死ぬのなら、せめて青空の下で死にたい。」母親はそう言います。

 

Kは暴力、貧困、混乱の街で許可証をもらい街を出て、母親を故郷プリンスアルバートに送ろうと努力します。なかなか降りない許可証に苛立ったり、暴漢に会いながら母親を手押し車に乗せてKはプリンスアルバートを目指しますが、途中体調が悪くなった母親はそのまま寄った病院で亡くなります。

 

その後、天涯孤独になったKは一人で母親の故郷に向かいます。彼は自由を謳歌して過ごします。廃屋や洞窟に住み、畑を耕し、貯水池からかぼちゃとメロンに水を運ぶ日々。

それはまるで「時間の外側のポケットに入ったよう」なゆったりとした時間でした。

「好きでもない労働からあちこち盗むように再利用する自由時間ではなく…時そのものに、時の流れに身を委ねるような、この世界の地表いちめんにゆっくりと流れ、彼の身体を洗い流し、腋の下や股下で渦を巻きながら瞼を揺らすような時間」

 

しかしその途中、放火犯に間違えられ、さらにゲリラ部隊に食糧を提供していたと疑われ、警察に拘束されます。飢えていたKは診療所に送られますが、この後の場面からはこの診療所の若い医師の目線でKについて語られます。

 

ひとまずあらすじはここまでにしておきます。後半にあらすじと絡めながら論じていきます。

 

【母を殺せない】

文学とは「父」を殺すことにあると私は思う。父とは生殖的な意味だけでなく、神、規範、道徳、封建制、絶対的なものとして象徴されるものの総称である。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は父殺しの小説だ。

 

一方、母は一つの安心領域である。聖母マリアに代表されるような慈愛に満ちた存在。

 

父は越えるべき壁であり、母は帰ることのできる故郷である。その機能は相反するといえよう。壁を越えようとし、疲れれば故郷で回復し、また壁を越えようと試みる。あくまで故郷は存在したまま壁を変える必要がある。

 

【追記】おそらくこのような文学観は社会の変化、つまり女性の自立、大きな物語の喪失、グローバル化によって大きな変容を迫られるだろう。

 

 

Kには父親の影が一切ない。そしてKは母から脱するどころか、「母親を守り続ける」という規範を「父」として選んだ。

 

上で壁としての父と故郷としての母は相反すると書いたが、Kの場合、父と母が癒着しているのだ。

「母親を守り続ける」という規範を乗り越えようとすればKは故郷(母親)を破壊することになる。もちろん規範に従えば彼は故郷からでることは一切できない。

これが父と母の癒着である。規範と故郷の同一化とも言えるかもしれない。父/母ではなく父=母

 

母親が亡くなった後、Kは母親に対してどのような思いを抱いているのか。

「ここでずっと生きていたい。母が、そして祖母が生きていた場所」

「第二の女性を探した。母親をこの世に送り出した女性。」

「母の夢も見た。…彼女は若くて美しかった。…嬉しさに浮き浮きしていたのだ。…虚空に危うく運び去られようとしているのがわかった。それでも恐怖はなかった。自分が飛べるのはわかっていたから。」

「だれだってみんな母親から離れていくんだ。それとも俺は、離れられずに、こうして死ぬために、母親の膝の上にのっけて死ぬためにもどってこなけりゃならないような子どもなのか?」

 

Kは母親を憎むばかりか、祖母にまで思いを馳せ、母親の故郷に愛着を寄せる。死者は土に還るというアフリカの思想が反映され、まさに彼にとっての母は「土地」へと変化する。まさに「母なる大地」である。「母」の拡大である。

 

彼は母親が死んだ後も「母親を守り続ける」という規範を愚直に守り続け、母親の故郷で生き延びることを願うのである。

 

そうしないと自己が崩壊するからであろう。

 

人は父を殺し、自らが父になることで自立することができる。自らの内側が形成される。判断基準や自己の規範が確立される。

 

しかし父と母の癒着のなかで育ったKは父になることができない。自己の基準がない。「石」なのである。実際にKは父親になることを心から忌避している。

「人の父親になりたいという欲望がなくて本当によかった」

「最悪の父親になってしまう。」

 

父になる、ならないじゃない。父に「なれない」んじゃないか。K。

 

ここからは後半の若い医師の言葉を借りてKについて考えたい。

自由を享受していたKは途中、放火犯とゲリラへの協力が疑われ、国家に拘束されてしまう。

 

若い医師に対し沈黙を守るK。医師は痺れを切らす。

「話すなんて簡単だろ。わかってるよな。話せよ。」

「自分に中身を与えてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。」

「ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を聞かせろ、きみの話を語れ!」

 

Kは語らないのではない。語れないんだ。中身がないんだ。Kは石なんだ。父を殺す機会を与えられず、故郷に縛られ、やっと30歳を越えて初めて、自立と自由を享受しようとしていたのだ。

 

しかし国家が、歴史が、戦争が、それをKに許さなかった。

 

Kの診察をする若い医師はこうKに語りかける。

「きみはもっと若いころに自分の母親から逃げ出すべきだったな、話を聞くかぎり、彼女こそ本物の殺人者のように聞こえるよ。母親からできるだけ遠い茂みに行き、自立した人生を始めるべきだった。」

ついに医師は同僚のノエルにこう言い放つ

「やつ(K)はわれわれの世界の人間じゃない。自分だけの世界に生きているんです。」

 

診療所でKは一切の食事を拒否する。生きることに無関心となる。黙秘を貫く。そしてKは最後、診療所から逃亡する。

 

若い医師は言う。彼は徐々にKを理解しようとする。

「たぶん、自由というパンしか食べないのかもしれない」

「キャンプの食べ物を君が食べようとしないのは…マナの味がきみの味覚を永久に麻痺させたとでもいうのか?」

「マイケルズ、きみをあんなふうに扱って、許してくれ、きみがだれなのか、つい最近まで正しく理解していなかったんだ。」

「どんな地図にも載っていない、どんな道をたどってもただの道であるかぎり行き着けない、そこへ至る道は君だけが知っているんだ。」

Kが初めて診療所に来たときと打って変わった評価だ。

 

私はこう解釈する。

Kは「父と母の癒着」により、自己の基準がない、「石」のような男だった。しかし彼は祖母・母の故郷で自由な時間を過ごし、自立した生活を送るなかで、自由を全身で享受する。Kは我々のように自由を簡単に手放したりしない。自由のためなら餓死すら厭わない「石」の男となった。自由を奪った戦争、それを起こす国家に対して全身で拒否の意を示す。自由のためなら食事だって拒否する。

他の人間から見ればもはや別の生き物にすら見える。嘲笑も買う。しかし若い医師はマイケルが逃げてから理解した。彼こそが自由を体現した男だと。口唇裂で、学もなく、職もなく、女も寄り付かない、妻も子もいない、天涯孤独で、黙秘を貫き、食事すら拒否するこの冴えない男が自由の人だと気づいた。

 

母親はKを厭わしく思っていたかもしれない。しかしそれでもKは最後まで母を殺さなかった。そして辿り着いた母の故郷で、全身に染み込む自由を手に入れた。

 

もしKが母を殺し、つまり否定し、例えば母親の故郷に向かわずシーポイントで働き始め、人びとの中で暮らせばKは自由を獲得できなかっただろう。

 

人間は父を殺して人になると書いたが、Kは父も殺さず、母も殺さず、すべてを受け入れ、自由を獲得した。それは普通の人間ではなし得ない、ある意味人間より動物に近いKのみが知る「道」なのではないか。

 

ここまで読んでアルベール・カミュを思い出す。全てに「ノン」を貫き、自由について考え抜いた男。

 

マイケル・Kの冒頭はこのような詩から始まる。

 

戦争はすべての父であり、すべての王である。

それはあるものを神として示し、あるものを人として示す。

あるものを奴隷となし、またあるものを自由の身となす。

 

 

やはり母は殺せないのである。