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三島・太宰・ヘミングウェイ・フィッツジェラルド

「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」(「私の遍歴時代」三島由紀夫

 

三島由紀夫太宰治はわざわざ説明する必要もないだろう。日本を代表する人気作家である二人が対照的な作家であったことは興味深い。

 

僕が今回書きたいのは二人の作家の文学論ではなく、それ以前の人間関係というか舞台についてだ。想像に必要な舞台について。

 

太宰はまるで土下座をするような卑屈さを感じさせ、三島は見上げるかのような超然さを感じさせる。弱さの文学と強さの文学というべきか。

三島は「太宰治について」でこう述べる。

「文学でも強い文体は弱い文体よりも美しい。…強さは弱さよりも佳く、独立不覊は甘えよりも佳く、征服者は道化よりも佳い。太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは…この男の狡猾さである。」

腕を組みながら太宰は「狡猾」だと喝破する三島と、頭を抱えながら、ちらと三島を見て、無言を貫く太宰。

 

ただその二人もいわば「同族嫌悪」というべき関係だったことも作品を読むとわかる。

太宰の「人間失格」、三島の「仮面の告白」、両者を読んでわかることの一つに「生の無意味さの実感」があるだろう。

 

例えば「仮面の告白」での「人間が御飯をたべるといふ習慣がこれほど無意味に見えたことはなかった」

そして「人間失格」での「めしを食べなければ死ぬ、といふ言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞こえませんでした。」

 

食事という「生」の根本を通し、両者が「生の無意味さ」に苛まれていることが確認できる。驚くほど似ている。

 

私は読者に三島と太宰が邂逅したときの場面を想像してもらえるような舞台をつくりたい。

 

僕は三島が太宰に「きらひなんです」と言った顔を想像するだけで楽しくなる。

 

冒頭に挙げた三島の「きらひ」発言に対し、太宰の反応に定説がない。

 

三島によると太宰は一瞬たじろぎ「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と誰にいうなく呟いたという。

 

しかし、この席の斡旋役だった野原一夫によると太宰は「きらいなら、来なけりゃいいじゃねぇか。」と吐き捨てたという。

 

どちらなのか、はたまた両方なのか。

あとは理屈ではなく想像に任せたい。

 

ちなみにYouTube三島由紀夫が太宰を「危険で才能のある作家」と評した動画あるので興味があればどうぞ。

https://m.youtube.com/watch?v=3NqLbLozrKM

 

僕は太宰と三島を見ているとヘミングウェイとフィッジェラルドを思い出す。

 

ヘミングウェイは男性的で強い作品を書く一方、フィッジェラルドは女性的で本当に儚い作品を書く。ただ彼らは太宰・三島と違い非常に仲が良かった。

 

性格が違ったからだろう。

 

ヘミングウェイとフィッジェラルドの手紙のやりとりを見ていくとお互いが本当に心を許し、信頼しあっているのがわかる。

 

「何とかして、君に会えるといいのに。君は僕にとってたった一人の男だ。ヨーロッパの内外でぼくがほめ言葉(あるいは悪口)を言いたい放題言える相手は君だけだ。」(ヘミングウェイからフィッジェラルドへの手紙 1926年11月24日頃)

「この一年半の間、君の友情がぼくにとってどれほどかけがえのないものだったか、言葉では表せないーヨーロッパ滞在中のぼくにとって最もすばらしいものだった」

(フィッジェラルドからヘミングウェイへの手紙 1926年12月23日)

 

彼らが会ったのは1925年の5月のパリ、ドランブル街のディンゴ酒場である。このとき28歳のフィッジェラルドは「グレート・ギャツビー」と短編集「すべて悲しき若者たち」を書き上げ、作家としての地位を確立しつつあった一方、25歳のヘミングウェイは「日はまた昇る」を書いたものの経済的には困窮していた。

 

しかし1930年代には二人の地位は逆転する。ヘミングウェイはフィッジェラルドに小説を書くよう説得するが、フィッジェラルドは自暴自棄になり、凋落の一途をたどる。

彼らの友情にもヒビが見えてくる。

「いいかい、兄貴は悲劇的な人間なんかじゃない。ぼくだって、違う。ぼくたちは作家以外の何者でもなく、成すべきことは、書くことだ。」

ヘミングウェイからフィッジェラルドへの手紙 1934年5月28日)

 

ヘミングウェイの悲痛な叫び。

 

「ぼくたち、もっとたくさん会えるといいのに。ぼくは君のことを全然分かってないような気がしている。」(1937年6月5日 フィッジェラルドからヘミングウェイへの手紙)

 

フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャッビー」の最後は力強く嵐の海を進む舟であったが、晩年のフィッツジェラルドはゆっくりと海へ入水するかのように、発狂した妻ゼルダを遺し、愛人シーラの部屋でアルコールの底へ沈んでゆく。まるで太宰のように。1940年没。享年44歳。

太宰は1948年、39歳のとき、愛人山崎富栄と入水自殺。

 

その後、ヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞、1954年にノーベル文学賞を受賞し文学者として名声を極めるも、1961年にアイダホ州ケッチャムの自宅で猟銃自殺。享年61歳。

三島も国際的な名声を得つつ、1970年に割腹自殺した。享年45歳。

 

みんな死んでしまった。

 

参考文献「フィッジェラルド/ヘミングウェイ 往復書簡集」宮内華代子