名文メモブログ#政治と文学

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新潮45を読んで

本当は自民党史について書くつもりだったが、時事に乗っかって新潮45を読んでみた。一つ、気になったことがあったからである。

 

小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」というタイトルである。このタイトルに引っかかり近くの図書館で新潮45を読んでみた。(買う勇気はない)

 

これを読んで僕が思い出したのは福田恆存の「一匹と九十九匹と」という文章である。

 

福田恆存とは】

保守派の文芸評論家であり、東京大学英文科を卒業後、翻訳、劇作、評論活動を行う。シェイクスピアやロレンスの翻訳をした。ハムレットの翻訳演出で芸術選奨文部大臣賞をうける。1994年没。

 

福田は「一匹と九十九匹と」のなかで政治と文学の峻別を説くのである。

 

まず福田は「混乱の季節のなかにあつて政治のことばで文学を語る習慣」に疑問を呈する。

人々は「政治家の目的と文学者の目的とはおなじであり、ともに人間の解放と幸福のためにたたかふ戦士」だと思っているが、それは違うと福田はいう。

「その創造のいとなみを、その由ついてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。」

「たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。」

「政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ。」

「政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない。」

 

福田は政治と文学の峻別を説く。まさに人間の理性を懐疑する保守派と言うべきか。

福田自身が政治と文学を峻別してきたのは「知性や行動によって解決のつく問題を思想や個性の場で考へ、それをいたづらにうごきのとれぬものと化するあまやちを避けたかつたからである。」という。

 

「知性や行動の場」とは政治のことであり、「思想や個性の場」とは文学のことであろう。

 

さらに福田は聖書の言葉

「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」を引用してこう述べる。

「このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれである」と。

 

つまり「九十九匹」を救うのが政治であり、消えてしまった「一匹」を救うのが文学であると福田は説く。そのうえで「文学にしてなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」

 

「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。」と続く。

 

福田恆存は文章が良いのでついつい長く引用してしまう。

 

この後も福田の考察は続きますが、一旦「新潮45」の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」に戻ります。

 

福田のこの考察を踏まえて、小川榮太郎氏のタイトルだけ読んだら僕は「あぁ、確かになるほど」と頷いてしまうのです。

 

「生きづらさ」という主観は確かに政治では救えず、救うのは文学です。

 

誤解して欲しくないですが僕は新潮45をめぐる差別論争に加わる気もないですし、そもそも前提知識がなさすぎて加われません。LGBTでもないし、LGBT運動に参加したこともない。ただ様々な理由で「生きづらさ」は感じています。だから文学ばかり読むのです。

 

僕が考えたいのは政治と文学の峻別の線がまた変わろうとする時代なのだなということです。かつて黒人差別は政治の世界ではなかった。しかし様々な運動家たちや啓発活動により黒人差別を「政治」の世界にまで持ってきて、差別撤廃に至った。つまり政治と文学の境界線が動いたわけです。この偉業に対し僕自身もこの上ない賛意を示します。

 

ちなみに黒人の生きづらさを扱った小説で有名なのは「アンクル・トムの小屋」でしょうか。

 

今回のような騒動が起こった背景にはそのような政治と文学の峻別の線が動きつつあるんだなと感じたのです。それがどのような結果が相応しく、またどうなるかは私の理解を超えます。

 

ただ政治が全てを救えるはずはないでしょう。人々が個々に抱えている個人的な生きづらさを政治に委ねますか?

極端な例を出すと失恋に苦しみ、生きづらさを感じる青年に対し、政府が予算を組んで「失恋対策本部」を立ち上げ、カウンセラーを置きますか?そういった失恋は文学で癒すべきです。

 

LGBTの方々が政治的な困難に直面し、それを解決するために動きだす、そのこと自体は否定されるべきではないですし、LGBT差別というものがあれば断じて許すべきではないでしょう。

 

ただ僕は小川榮太郎氏のタイトルだけ見て「あぁ、なるほど」と頷き(内容に賛成したわけではありません)、福田恆存の言葉を思い出した。それだけです。

 

これを機に福田恆存について知る人が増えればいいなと思います。

 

僕のような弱小駆け出しブロガーが炎上するほど注目されるとも思いませんが、何度も言いますが「新潮45」や杉田論文擁護、小川榮太郎氏の論説に賛成したわけではないです。

 

参考文献「保守とは何か」福田恆存

なお引用に際し、本来旧字体が使われている箇所もありますが新字体で書いております。福田自身が現代仮名遣いを批判していたことも承知ですが、読みやすさを優先し、新字体としました。ご理解のほどお願いいたします。