名文メモブログ#政治と文学

‪@meibunnmemo ‬ツイッターしてます

大学生のための政治入門④自民党の歴史(前編)

自民党総裁選で安倍さんが勝ちましたね。

 

総裁選は自民党のなかでの選挙なので自民党の党員にしか投票権はありませんが、実質的には総理を決める選挙なので注目度が高いですね。

 

さて永きにわたり政権を維持している自民党ですが、その自民党の歴史について正確に説明できますか?

 

まぁ僕も理解したのは大学入ったからですし、そもそも高校では現代史をほとんど扱わないので知らない人が多くても仕方ない気がします。しかし現代史がかなり重要であることは皆さんも心のどこかで思っているのではないでしょうか。

 

社会学者の西田亮介さんも「なぜ政治はわかりにくいのか: 社会と民主主義をとらえなおす」のなかで現代史の教育の必要性に言及しています。

 

今回は自民党の歴史について、入門として書いていこうと思います。

 

この自民党史では「派閥」に注目して見ていきます。戦前の政党には自民党ほど派閥というのものは明確化していませんでした。派閥は自民党を特徴づける重要な要素となります。

①二つの保守党(1954年)

1954年、自由党の総裁である吉田が総理でしたが、自由党内部では総裁の座、路線をめぐり鳩山一郎を中心とした反吉田派が形成されていました。

1954年11月8日、自由党から岸が除名されますが、それに呼応し鳩山派、岸派など反吉田派が離脱します。そして1954年11月24日に鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結党します。

ここに自由党日本民主党という二つの保守政党が生まれることになります。

1954年12月7日には反吉田派の勢いが止められず吉田は総辞職します。そして12月9日に、首班指名投票に勝った鳩山一郎が総理となります。

 

保守合同(1955年)

保守合同とは自由党日本民主党が一つの党になることです。

政権が法案を通し、政策を実施するには全体で単独過半数議席が必要です。1955年に、民主党鳩山一郎は議会を解散し、総選挙をしました。結果、185議席を獲得する大勝利でしたが、単独過半数には届きませんでした。

また当時、国際情勢は冷戦の最中であり、資本主義と共産主義の対立が深まります。これを背景に保守政党と対立する社会党が発展し、議席を伸ばしていきました。鳩山は社会党に対抗して、安定政権をつくるため自由党と手を組むことにしました。これが保守合同であり、自民党の誕生です。

 

保守合同とは

占領政策の是正、自主防衛、憲法改正を党是とする日本民主党

・親米、自衛力漸増・憲法維持を掲げる自由党

という異なった路線をとる保守政党が融合したのです。上の三つを見るだけでもかなり違った方針を二つの党が持っていたことを覚えておいてください。

 

③1956年の総裁選と派閥の誕生

鳩山の後継を決める1956年の自民党総裁選は岸信介石橋湛山石井光次郎三者で争うことになります。このとき、優位と伝えられていた岸派に対し、石橋派と石井派が手を組み、下馬評をひっくり返して石橋湛山が首相の座を射止めました。

 

この総裁選において自民党の代名詞とも言える「派閥」が明確化されます。

<自由党系>

吉田派→池田派と佐藤派

緒方派→石井派

大野派

※緒方派とは自由党の副総裁を務めた緒方竹虎の派閥。緒方は1956年1月に急死

<日本民主党系>

石橋派

河野派

岸派

河野派とは河野一郎の派閥。

 

〈旧改進党系〉

三木・松村派

 

これらの派閥のうち宮沢政権誕生時(1991年)に

岸→三塚

佐藤→竹下

池田→宮沢

河野→中曽根

三木・松村→河本

という形で生き延びています。このときの総裁選で派閥の原型ができ、基本単位として重要な要素になったことは記憶しておいてよいでしょう。

 

 

岸信介と安保改定

石橋湛山が1957年に肺炎で倒れると後継に岸信介が首相となります。

岸信介といえば安保改定がもっとも有名かと思います。対米外交について岸から吉田や鳩山を見ると、吉田は対米協調に偏りすぎであり、鳩山は対米独立に偏りすぎていました。この協調と独立のあいだに岸は政治的将来を賭けたといえるでしょう。

北岡教授によると岸の遺産と教訓は自民党政権に深く根ざし、日米協調こそが自民党総裁の条件になったといいます。55年体制に対し、北岡教授はこの岸の遺産を60年体制と呼び、55年体制と峻別し、自民党の長期政権を可能にしたと主張します。

岸は安保改定を達成し、政界を引退しました。

 

池田勇人と所得倍増

池田は所得倍増計画を打ち出すと同時に安保改定推進派が政治の主流を占めるよう人事を行います。例えば安保の採決の本会議に欠席した河野派を冷遇しました。

 

また興味深いことに派閥の解消と政党の近代化が議論されるようになります。

福田赳夫が「派閥の解消せよ」と池田を批判をするのを池田は受けて、派閥の除去に取り組みます。1963年に党近代化の答申を受けて「派閥の解消」を宣言するが、まったく実現されませんでした。

これは派閥が中選挙区制度と総裁公選制度を理由に形成されたものであるからであり、精神論ではどうにもならなかったのです。

 

中選挙区とは一つの選挙区から複数人(三人とか)当選する制度です。現在は、小選挙区制であり、一つの地区から1人しか当選しません。

三人が当選する中選挙区で例えば二人のうち誰が自民党から出馬するか決めなければなりません。それを決めるのが派閥の領袖です。そして領袖は立候補者に選挙区を配分し、当選させる代わりに総裁公選で自らに票を入れるようにします。

 

また高度成長によって農村が解体されていくと地方有力者から票を集めるのではなく、「個人後援会」組織によって集票をするようになります。

 

今の我々の知る自民党の姿に近くなってきました。

(後編に続く)

 

参考文献 北岡 伸一
自民党―政権党の38年 」(中公文庫)