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村上春樹と福沢諭吉

福沢諭吉

思想家。慶應唯一の「先生」。1835年に生まれ、1901年に没する。「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」ともいうべき人生を歩んだ。奇しくも明治維新を迎えた1868年のとき、福沢は33歳。そして亡くなったときは66歳。江戸を33年生き、明治を33年生きた、まさに「二生」の人生だったといえよう。

 

村上春樹

小説家。本人曰く、高校のときマラソンの授業で、女の子たちが○○くんがんばれ〜と応援するなか、村上春樹が走るときは村上くん無理しないで〜だったそうだ。(ラジオ番組に出演の際の話)

ちなみに村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』でタイプライターを使って英語で書いた理由として「既成の文体を打破するため」という噂が巷で有名だ。しかし真相は違うらしい。ヘミングウェイが戦争で砲弾が飛び交うなか記事を書いていたというエピソードに憧れて、タイプライターで書いたそうだ。(当時、日本語のタイプライターはなかったらしい。このへんの話は柴田元幸さんの『翻訳教室』に詳しい。)

 

なぜこの二人を取り上げたかというとベストセラー作家という共通点があるからだ。福沢は『学問のすゝめ』が今でも有名だが発売された当時もベストセラーだった。また村上春樹も『ノルウェイの森』などベストセラー小説をいくつも書いている。

 

村上春樹の小説といえば、あの翻訳調の独特の文体だろう。透明感のある、ポキポキとした、すこしぎこちない、しかし頭にスッと入る文体。前述の通り、『風の歌を聴け』はまず英語で書き、それを翻訳して日本語に直したものだ。つまり英語と日本語という二つの言語が交差したところに村上春樹の文体が生まれた。

 

それに対し、福沢の文体はどうだったのか。

『福澤全集緒言』という本がある。

明治三十一年に「福沢全集」(全五巻、時事新報社刊) が出版された。そして全集の第一巻の巻頭に掲げるために執筆されたのがこの緒言だ。全集に収めた著訳書の成立の由来などについて書いている。いわば裏話だ。

 

ちなみにこの緒言は当時、緒言のみで買うこともできた。それは今まで福沢の著作を全て買ってくれた読者はこの緒言のみを買えばいいようになっていたのだ。福沢の合理主義精神の表れとも言えるし、サービス精神とも言える。

 

そのなかで福沢はまずこう述べる。

「先づ第一に余が文筆概して平易にして読み易さは世間の評論既に之を許し筆者も亦自から信じて疑はざる所なり」

福沢先生の自信たっぷりの顔を思い浮かぶようだ。

 

そして福沢の文章論に入る。

「俗文俗語の中に候の文字なければとて其の根本俗なるが故に俗間に通用す可し但し俗文に足らざる所を補ふに漢文字を用ふるは非常に便利にして決して棄つ可きに非ず行文の都合次第に任せて遠慮なく漢語を利用し俗文中に漢語を挿(さしはさ)み漢語に接するに俗語を以てして雅俗めちゃくちゃに混合せしめ恰も漢文社会の霊場を犯して其の文法を紊乱し唯早分りに分り易き文章を利用して通俗一般に廣く文明の新思潮を得せしめんと…」

 

要するに、俗文(一種の当時の共通の日本語)から「候(そうろう)」を削り、漢語を補うのはとても便利だ、雅俗(漢文と俗文)をめちゃくちゃにしてわかりやすい文章を書くことで新しい文明をいろんな人にわからせたということだ。

 

僕が興味深いなと思ったのは村上春樹が日本語と英語を組み合わせ、文学に新しい風をもたらしたのに対し、福沢も漢文と俗文を組み合わせることで文明の羅針盤となるべき文章を執筆した点だ。二つの言葉を使いこなす両者が、うまく言語の間を往来し、ベストセラーを生み出した。

 

ベストセラーの鍵は言語にあるのかもしれないと雑な結論に至り、筆を置きたいと思う。