名文メモブログ#政治と文学

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話題の「日本国紀」を読んでみた。

ジュンク堂池袋店の入り口に「日本国紀」が平積みにされていました。

本当は神島裕子先生の「正義とは何か」(中公新書)を買いに来たのですが、ちょっと読もうかと思い大正〜昭和前期のところだけ立ち読みしました。

 

まず感想としては「あれ?思ったより大人しい」でした。もっと日本賛美🇯🇵な内容かと思いましたが、予想以上に控えめだったというのが本音です。情報量も「山川日本史くらいの情報量+著者の善悪判断」ぐらいでもっとガンガン書き込んでるかと思えばそうではなかった。

 

また内容の正誤についても正直ちょっと思うところはあったのですが一学生の僕が指摘する自信がないので控えておきます。ただ「WW1において欧州大陸で戦闘を交えなかった日本陸軍は近代的な陸戦に備えられなかった。」みたいな記述に対しては片山杜秀先生の「未完のファシズム」で反論可能かなと思いました。

 

それよりも序文のほうが気になりました。

「ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは「物語」なのです。本書は日本人の物語、いや私たち自身の壮大な物語なのです。」

百田さんは歴史を物語だと断言しています。そして執筆の動機を「本来、歴史教育とは、その国に生まれたことに誇りを持ち、先人を尊敬できる内容であるべきです。なぜ、そんな教科書が日本にないのかと思ったとき、『自分で書けばいいんだ!』と気付いたのです」と述べています。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.zakzak.co.jp/soc/amp/181112/soc1811120018-a.html

 

僕なりに解釈すると百田さんは「歴史」を愛国心を鼓舞するための「道具」と認識しており、歴史の持つ「物語性」を利用しているというところでしょうか。歴史とはアイデンティティを回復する物語と言い換えてもよいかもしれません。

そのこと自体はどの国も採用しているものなので不思議はないと思います。

そして韓国の「物語」に対し、こちらも日本の「物語」をぶつけてやろうということでしょうか。

 

僕はこの百田さんの試みが3つの意味で争いを生むと悲観しています。

 

①他国との争い

物語と物語は共有し得ないと思います。ましてや国家のアイデンティティをかけた物語です。反発する磁石のように相容れない争いに僕は意味を見出せません。ただ百田本の主張を例えば国家が採用するとなったら大変な問題ですが、今のところそのような目立った動きは見られません。その意味でこの争いはまだ対岸にあります。

 

しかし日本は民主主義の国であり、国民の世論次第では百田本の主張を採用するという道もゼロではないと思います。

 

歴史学との争い

物語である百田本と科学である歴史学の争いです。

百田本に見られた物語はある程度の史料の上に善悪判断を載せているものです。一方ここでいう科学とは「歴史学」であり、歴史学とは「史料を積み重ね、仮説を立て、論理的に実証し、過去の近似値を構築する」という意味です。そこでは出来る限り善悪含めた解釈を希釈しようという学者の努力があります。

このように考えたとき、科学である歴史学と物語である百田本は鋭く対立します。

(もっとも歴史学の立場の人たちからしたら「あんなのと同じ土俵に立たせるな」と叩かれ、百田本の立場の人たちからも同じように叩かれるような気がします。まぁこんな小さなブログがそんなに注目されるとは思いませんが…)

 

③専門知と一般層の争い

ここでいう一般層とは歴史学を学んだことがほとんどない人たちという意味です。この争いは争いというより一般層の一方的な攻撃ですね。ツイッターを見てて驚いたのが百田本を買う人たちの専門家たちへの不信感です。

「歴史を学者から取り戻す」そんなツイートを何件か見ました。

エリートである専門家たちが独占し、国益を損する「歴史」を百田さんが民衆のために取り戻した…ということでしょうか。

(僕自身は専門知ほどではないが、一般層のわりには知識のあるアマチュア層だと自認しています。)

 

このような争いに対し、何を考えるべきか。

 

ツイッターのなかでは「一つ一つ、誤りを指摘していく」ということを書かれていた人を見かけました。重要なことだと思います。あくまで科学的な態度に基づき対処していくことべきということでしょう。

御厨貴先生と牧原出先生の対談にこのような記述があります。

「フランスのメディアには原子力の専門家が登場して、『科学によって怒った問題は、科学が解決する』とはっきりいうわけです。そうはっきり言われると、かえってなるほどと思う。…なのにオルタナティブと称する『脱専門化』の結果、すべてをゼロに引き戻して終わりという、まぁアマチュアリズムの極みですね。」(御厨貴「戦後」が終わり「災後」が始まる」P162)

 

しかし私はこの試みに気をつけるべき点があると考えます。

 

一つは、結局、歴史とは「過去の近似値」にすぎないということです。百田本読者でも東大教授でも結局、過去の近似値しかわからない。限界があります。その指摘をし合うこと自体にまた不毛な争いが生まれる気がしてなりません。

 

また訂正をしても、果たして百田本を信じる人たちは自らの信仰を捨てるでしょうか?物語を受け取った信者が間違いを指摘されるとさらに信仰心に燃えるのは古今よくある話です。

 

故に「あくまで科学的な態度を貫く」ことにプラスして目指すべきこととして「分厚いアマチュア層を増やす」ことだと思います。

 

なんだか経済政策の話みたいになりましたが、分厚いアマチュア層とは二つの条件が必要だと思います。

 

①学者より専門知識はなくとも学問的態度(出典の不確かな説は信じない、ある程度の通説を知っている、史料の解釈が多様であることを実感している、など)を貫き、学者の説を批判的に吸収している。

アイデンティティの喪失を埋めるため歴史物語で安易にオナニーしない。

 

「誤りを一つ一つ指摘していく」試みと同時に「分厚いアマチュア層を増やす」という試みを立場に関わらず行っていくべきだと思います。

 

E.H.カーが「歴史とは過去との対話である」と述べましたが、歴史理解には専門知と一般層の対話も必要だと思います。その対話の潤滑油となるべき存在が「アマチュア」です。

 

そもそもアマチュアという言葉は「愛する人」という意味のラテン語 amator(アマートル)が語源だと言われています。歴史を愛する人を増やすのです。

もちろんプロ(専門家)も歴史を愛していると思いますが、歴史で生計を立てることが求められる以上、自らの歴史愛とは異なる分野を研究したりすることもあるのではと思います。その意味でプロとアマは違うと僕は思います。

 

また私は上に挙げたような争いが全く無駄とは思いません。歴史学者らが事実を発掘し、小説家たちがそれにインスピレーションをうけ、歴史への関心が高まる。そのような好循環が理想と考えます。ある程度の争いは程よい緊張感を生み、結果、素晴らしい研究や小説が生まれるというのが理想です。ただその争い、緊張感が非建設的な罵り合いに終わるなら無駄と断ぜざるを得ません。そうならないための「アマチュア層」です。

 

これで一アマチュアによる感想を終わります。