名文メモブログ#政治と文学

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これはブログだが、私の部屋でもある。散らかってるが入りたければ勝手に入ってくれ

民衆の側が自ら武器を持つ、…いつでも権力者に向けられる、という事態になりますと、事情は一変いたします。政治という仕事は、…暴力的な決済を避ける…ことが、その本来の機能と考えられるようになるからであります。しかも、思想の自由を保障しなければなりませんから、…背広を着た政治家がこの仕事をやるのは、そう容易なことではないのでありまして、政治家の資質がきびしく問われざるを得ない。…政治というものを、軍事と切り離して、社会経営の仕事と考える風土は、こういう条件のもとにはじめてそだつのでありまして、最後の手段を権力が完全に独占しているところでは、こんなにきびしい政治の考え方は非常に根づきにくい。逆に(最後の手段を権力が独占している)ところでは、本来社会的な問題が無造作に治安の問題として処理されがちでありまして、それはこういう近代的な政治の観念の不在をありありと暴露するものにほかありません。これは日本の将来を考えます上で、十分注意しなければならない点であります。
福田歓一 近代の政治思想

 

我々はここに二十歳の芥川氏にみられなかった「芸術」に対する動揺を見るではないか。…氏の軽蔑していた民衆こそ、偉大なる創造力をもって、ゲエテをーそして、氏をも乗り越して突進するものであることを認めた時、芥川氏は、小ブルジョアジイのイデオローグに過ぎない氏の文学も、いつかは没落しなければならないという告知を、新興する階級の中に聴いたであろう。…民衆が新しい明日の芸術を創造する。 宮本顕治 敗北の文学

私は現代は建設の神話を持っているのか、それとも退廃の神話を持っているのか知らぬ。私は日本の若いプロレタリア文学者たちが、彼らが宿命の人間学をもってその作品を血塗らんとしているという事をあんまり信用していない。また、若い知的エピキュリアンたちが自ら眩惑するほどの神速な懐疑の夢を…抱いているという事もあんまり信用していない。

小林秀雄 様々なる意匠

 

「話」のない小説を最上のものとは思っていない。が、…最も純粋な小説である。…僕はこういう画(セザンヌ)に近い小説に興味を持っているのである。ではこういう小説はあるかどうか?…近代では…何びともジュウル・ルナアルに若かない。…一見未完成かと疑われる位である。が、実は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。
文芸的な、余りに文芸的な芥川竜之介

 

…今でも俺は深き穢れに沈んでいるんだ。人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。…しかし俺は単に将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道な真似をする、虫けらのような奴だと思わないでくれ。俺はほとんどこのことばかり考えているんだ。この深き穢れに沈んだ人のことをね。…つまり俺がそれと同じような人間だからさ。
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟米川正夫訳)

 

なぜ無神論者がこれまで、神が存在しないことを知りながら、自分をただちに殺さずにすますことができたのか。神が存在しないことを意識しながら、同時に、自分自身が神になったことを意識しないっていうのは、いかにもナンセンスだし、そうでなければ、なんとしたって自分で自分を殺してみせるはずだ。
ドストエフスキー「悪霊」亀山郁夫訳)

 

もし保守主義という場合にバーグに言及するならば、少なくとも、①保守すべきは具体的な制度や慣習であり、②そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、③大切なのは自由を維持することであり、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される。
(「保守主義とは何か」宇野重規」)

 

リベラリズムの思想伝統が…「啓蒙」のプロジェクトと…「寛容」のプロジェクトの二大契機から成ることについては、思想史家の間でも異論はあまりないでしょう。…啓蒙と寛容それぞれの暗部に通底しているのは自己絶対化です。…他者に対する公正さを要請する普遍主義的正義理念こそ、この自己絶対化の克服を導く価値理念です。(井上達夫「自由の秩序」)

 

民主主義の存在理由は何かというと、われわれが自分たちの愚行や失敗を教訓として学習する政治プロセスを、民主主義が提供してくれるということですね。完璧に頼れる人などどこにもいないが、愚者が自分の失敗から学んで成長することはできる。そのための政治プロセスが民主主義だ、と。
井上達夫「リベラルのことは嫌いになってもリベラリズムは嫌いにならないでください」)

 

我が国は明治以来、西洋思想、西洋科学を輸入した。もちろんその精神への理解も叫ばれたが実際されたのは主として「富強」を生む理由となった精神に過ぎなかった。実用性のみが見られた。しかしそもそも科学とは知性により自然を理解する、芸術と本質を同じくする精神の無償活動である。科学の実生活への応用は科学の結果に過ぎず、目的ではない。芸術の功利性が強調されれば、芸術の堕落を招くように科学もその実用性のみから社会に重んじられるのは、科学の真の不幸である。

中村光夫 近代の超克より

 

全てを取るか、全てを捨てるか、どちらかしかないように思えた。まるで残りの人生ずっと、若くして出会い、若くして愛した特定の人々の自我を持ち歩かねばならず、それらの人々が完全であるかぎりにおいてしか自分も完全になれない、そう運命づけられているかのようだった。そこにはある種の孤独もつきまとう。
ー愛されるのはたやすいー愛するのは難しい。
スコット・フィッツジェラルド夜はやさし」森慎一郎訳

 

 シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。
シュルレアリスム宣言」アンドレプルト巌谷國士

 

私たちは時を物語れるだろうか、時そのものを、時だけを、それだけを切り離して?…それは不可能な気ちがいじみたこころみであろう!…物語は…時間をみたし、時間を「きちんとうずめ」、時間を「分割し」、時間に「内容を持たせ」、いつも「なにかがはじまっている」ようにする点で音楽に似ている。
トーマス・マン 魔の山

 

つまり、経済力の大きなアメリカを相手とする戦争が困難であること自体は皆知っていたので「専門家の分析が無視された」というのはやや不正確であり、「専門的な分析をするまでもなく正確な情報は誰もが知っていたのに、極めてリスクの高い「開戦」という選択が行われた」と考えるべきなのである。
牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」新潮選書

 

彼は苦しむことを拒絶している。彼は飽き飽きしている。…王様や巨匠たちに飽き、議会に飽き、法皇たちや神父たちに飽きている。彼は幸せになりたがっている。彼は全力でそれを望んでいる。それがたとえ動物のようであっても彼は生きたがっている(カミュ「ジャン・リクチュス 貧苦の詩人」高畠正明)

 

「シテールは現代ギリシャ語でキティラと呼ばれ、ペロポネソス半島の南にある島だが、神話で、愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)が海から上陸した島として知られ、ワットーの画(シテール島への船出)をはじめ、ボードレールの詩(悪の華)、ドビュッシーの曲(よろこびの島)で、美、愛、永遠、悦楽の象徴として描かれ、ゴダールの「パッション」の終わり近くの一景にも登場した。」
テオ・アンゲロプロスの映画「シテール島への船出」解説より)

 

私は私のペンを折ったものへの、復讐を思った。そして政治活動に身を投じました。しかし政党の内幕を知ったとき、政治活動にいや気がさしました。ばくち打ちの社会に似ているからです。
ものにもならぬことを、書いたり、論じたりしても始まらない。
一筋の道路、一本の橋でもよい、何か公共のためになることをやって死にたい。
鈴木東民『市長随筆』