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落合陽一さんの個展に行って

先日、しとしとと雨の降る中、落合陽一さんの「質量への憧憬」展に足を運びました。

 

ものすごくデジタルネイチャーに関心があるわけでもないけれど、巷で有名な人の個展に行けるなら行こうかなぐらいの気持ちでした。

 

とても良かったです。この個展だけで判断することはできませんが、落合陽一さんの感性に惹かれるものもあります。

 

人間が自然の中に芸術的な美を見出してきた一方で、この個展では科学技術や人為の偶発性の中の美を持ってきて、静かに広げた、そんなイメージを持ちました。例えば「虹玉虫」という作品。

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ちらちらとレーザーが走り、青く光る実験装置は、半径3メートルの世界しか世界ではなかった幼い頃の理科室での実験を連想させられます。

 

あぁ、科学はこんなに美しかったのか。

 

ただ個展を貫くものとしてノスタルジーが強く、決して未来志向というわけでもなく、広告看板の作品や電波塔の作品(写真を撮っておけばよかった…)に象徴される消費文化をさえも、ノスタルジーの中に回収し、それに芸術という名を与えるしかないのかと考えてしまいました。

 

落合陽一さんが飛び込もうとしている先の世界はおそらくネット、仮想、VR的世界であり、そこには連れて行けぬ質量たちー木の葉、古びた広告の看板、電波塔への愛着を感じました。連れて行けぬ申し訳なさ。存在の存在ゆえの悲しさ。

 

存在は存在しているから悲しい。

 

 

未来を予想するより先に未来が来る我々にとって、表現しうるのはうまい塩梅に甘くした過去であり、そこに縋りつくのはまるで寡婦が、戦死した兵士の夫を思い、膝を崩して伏して泣く姿のようでもあります。その意味で我々には未来がないかもしれません。

 

併せて「落合陽一の不気味さ」についても書きます。

 

個展の隅に配置された彼の言葉。

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関心のある人は拡大して読んでもらいたいのですが、彼は「能動的ニヒリズム」という言葉を使います。要は目の前に課題があればごちゃごちゃ言わず、持てる力を発揮して、全力で取り組む。それが「能動的」の意味だと思うが、一方で解決しても「何もない」と落合陽一さんは感じているのではないか。それがニヒリズムという語に接続される。解決しても解決しても理想郷は来ない。しかしただ進むしかない。そしてその先にあるのは社会科学的な、自然科学的な調和のとれた世界ではなく「社会彫刻」。

求道し、科学という彫刻刀で刻まれた芸術として形成された世界。

 

理想なき世界で、ただ目の前の課題という門の前で適応化し、突き進む世界の果てがなんなのか…燃え尽きてしまうかもしれませんね。

 

このまるで彼の「人工人工知能」のような言説がある人々に「不気味さ」を感じさせるのかもしれません。どこに向かってるんだ、コイツはと。

 

しかしこのような態度を貫く限り、落合陽一氏の言説を全て繋ぎ合わせると矛盾が生じ、自滅するのでは、と老婆心ながら思います。

 

でも、そもそも課題らが矛盾しているので、矛盾して当然なのです。高齢化に金を投じれば、少子化は止まらず、高齢者への支援を打ち切れば、少子化対策ができる、というふうに。落合さんが矛盾しているわけではない。矛盾しているのは課題を置き去りに、誤魔化し続けた昭和後期と平成。主語が大きすぎますね。

 

そんなことを思いながら僕は雨の中、しとしとと帰りましたとさ。雨のせいで脳内から言葉も垂れ流れてきました。だからここに書きました。

 

https://www.honzuki.jp/smp/user/homepage/no12090/index.html

書評です。