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アニメ「よりもい」のひねくれ考察ー愛情への回帰とSNSの切迫感


とある人の勧めでアニメ「宇宙よりも遠い場所」(以下よりもい)を見た。恥ずかしながら私は今までよりもいの存在を知らなかった。

 


宇宙よりも遠い場所」とは南極を指す。女子高生4人が南極観測隊に参加するという目標を立て、困難を乗り越えつつ成長するという清々しいほど真っ直ぐしたストーリーである。なんとニューヨークタイムズも絶賛したという。

 


相も変わらず女子高生に頑張らせたがる風潮はよくわからない。こんなに女子高生を酷使していたらそろそろILOや国連人権委員会の特別報告者に厳重注意されるんじゃなかろうか。

 


それはさておき、「よりもい」を見て絶賛の嵐、「感動しました」の声が多いなか私はひねくれてるので若干のひねくれ考察を記す。もちろん私もよりもいに感動した。一人一人の葛藤、美しい映像美、心にくる描写。久しぶりに良いアニメを見たと感じた。

 


が、敢えて違う方面から考察する。

一つは「人間関係のもつれと愛への回帰」

二つめは「我々を取り巻く現代的切迫感」

 

【以下、ネタバレがあります。ご注意を】

 

 

 

 

 

①人間関係のもつれと愛への回帰

 
このアニメには4人の女の子が登場する。玉木マリ(通称キマリ)、小淵沢報瀬(こぶちざわしらせ)、三宅日向、白石結月である。

 


まずキマリ以外の3人は人間・家族関係に悩んでいる。


南極観測隊員だった報瀬の母は行方不明となりそのまま帰らぬ人となる。報瀬はそんな母の遺品を探すため南極へ行くことを決意する。しかし周囲に南極に行くことを否定され、馬鹿にされ、その結果孤立している。


三宅日向も中学時代の部活をきっかけに人間不信に陥り、高校進学をやめる。コンビニで働きながら高認を取り、大学進学を目指す。


白石結月は幼い頃からアイドルとした忙しく活動していたため友人の作り方がわからないと悩む。個人的に「友人契約書」を三人に渡すシーンはなかなか心にきた。


この中で唯一、友人・家族関係に悩まされていないのはキマリのみである。家族にも愛され、友人もいる。孤立し、いじめられることも、裏切られて高校進学をやめることも、友人契約書を書くこともない。


しかしだからこそ三人の孤独・悩みを受け入れ、愛を回復する役割を担っているのだろう。作中で他の三人が自らの苦しみを吐露するとき、それを抱きしめて受けとめたのはキマリである。


この4人は並列に書かれているようだが、決してそんなことはない。むしろ非対称的であり「愛に溢れたキマリ」と「愛に飢えた三人」という構図すら完成するのである。


その意味で、キマリは聖母マリアのような役割を担う。

が、そのキマリももちろん神でも聖母でもなく、人間である。そのことについて見ていく。

 


②我々を取り巻く現代的切迫感


さてそのキマリも冒頭、突然泣き叫ぶシーンがある。コミカルに描かれているためあまり深刻さは感じないが、私は一見して異様なものを感じ取った。


まずキマリの高校二年生の朝が始まる。部屋の片付けをしようとしたキマリは手帳を見つけ、自身が高校一年のときに書いた「高校生になったら何かを成し遂げる」というメモを発見する。


何も成し遂げてないことに気づいたキマリは突然大声で泣き出し、母親が驚くのである。


なぜ愛され育ったキマリが泣く必要があるのか?なんの飢餓も、苦しみもないではないか。高校生活を楽しめばいい。が、どうもキマリは部活等はやっていないようである。(考えればこれも不思議である。まず何かを成し遂げたいなら部活等に入ればよいのに)


そしてその直後、一瞬だが高校の玄関に展示されたガラス張りの多くのトロフィーが映る。おそらくキマリの高校の生徒たちがもらったものだろう。皆さんの中学や高校の玄関にもある方は多いかと思う。


これがキマリの心象風景というものではないだろうか。つまりトロフィー=誰かに認められたいという強い承認欲求が確認される。


ここまで強い承認欲求は何によってもたらされるのか?


私の結論は「インターネット・SNS」である。Twitterは正確にはSNSには該当しないらしいが、便宜的にSNSに近いものとして扱う。

 


我々は今まで以上にインターネットという劇場で「見る・見られる」存在となり、他者の目を内在化しやすい傾向にある。同世代の他者の活躍を見、「私も何かしなくては!」という切迫感が押し寄せてくる。あるいはその理想に届かず、どうしようもない自己嫌悪すら陥る。(そういう人はSNSをやめればいいと思うが)

 


このような他者を見、他者からの視線を強く内在化したのがキマリではないだろうか。彼女の泣くほどの切迫感はここにあるというのが私の考えである。

 


実際、四人の女子高生たちは南極に行って何をするかというと「女子高生観測員」という売り文句で南極観測を動画配信(おそらくYouTubeのような)をするのである。こうしてキマリは「見る者」から「見られる者」への転身を遂げた。(そう言った意味でアイドルをやっている白石結月が加入したのは何かまた意味が見出せそうである)

 


たしかにキマリがSNS等をやっていない可能性もあるし、スマホやインターネットに溺れているシーンもない。が、だからといってそういったものを全く見ていないというのも非現実的であろう。もはやスマホの普及率は9割を越している。

 


ここで私はキマリのその後が気になるのである。それぞれ三人は自らの内在的な理由で南極観測隊に参加した。しかしキマリは「なんでもいいから成し遂げたい!」という言わば外在的理由で南極観測を達成した。

 


一体彼女は次はどこに行くのだろう?と一抹の危惧を覚えないでもない。

 


しかし一方で、彼女には満たされた家族も友人もいる。キマリは言わば帰ってくるべき基地がしっかりとある。仮に彼女が他者の視線を極度に内在化し、軽薄で無意味な冒険に出たとしても帰ってくるべき場所はあるのである。