名文メモブログ#政治と文学

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文学を読むこと、総括的に、だらりと

僕は中学生のとき詩をつくっていた。東京の騒擾と活気とは対照的な、微笑的で穏やかで、そして気づかないうちにゆっくりと衰退してゆく自然豊かな地方都市で育った。なだらかな山脈の一筋一筋に日が当たり、そしてその先に空と瀬戸内海が青く光る街。

 

そんな街で文学や文学者の庵を訪ねながら、鬱屈した学生時代を送っていた。

 

たまたま詩を作る機会と師に恵まれ、高校のときは詩作で全国的な賞を二つ戴いた。たぶん今でもネットで検索すれば出てくるかもしれない。文学的豊饒はもう過去だ。

 

この過去の文学的豊饒は今の僕の生存戦略でもあった。

 

僕はこの一年はただひたすら本を片手に部屋に篭って東京に耐えていた。カウンセリングと部屋の往復の生活で、周りに好奇の目で観察されているのではと、必要以上に震えながら歩いた。誰も僕を見ていないのに。

 

やることがなかった。なにかをやりたかった。なにもできなかった。この三重奏から導かれた行為は読書だった。特に夏目漱石をよく読んだ。高校の国語の恩師が愛読していたからだ。よく考えたらあまり夏目漱石を僕は読んでいなかった。

 

自室は塹壕だった。入道雲が落としてくる影の下に生えたコンクリートの塊の一室。蝉の声と滴る首筋の汗。僕は耳を抑えながら空想の爆撃に耐えていた。部屋の片隅で、ありもしない架空の暴力に震えながら、僕は何を考えていたのか。実に平凡なことだ。しかし僕にとって大切なことだ。

 

「作品」というものを考えるとき、それが芸術的価値、文学的価値のあるものか、或いは一過性のコンテンツに過ぎないのか、を判別する線は「問い」or「結論」なのかなと。夏目漱石のほぼ全ての作品を読んだけど彼が悩み続けた「文学とは」或いは「人間関係とは」に明確な結論は出ていない。

 

岩波文庫から出版されている「日本近代随筆選」に牧野信一の「文学とは何ぞや」という随筆がある。確か記憶の限りだが、筆者が不真面目な帝大生だったときの話だ。謹厳な老教授のつまらない文学の授業の最後の課題は「文学とはなんぞや」。重く刻まれたこの課題を筆者は振り返る…。そしていまだにその問いを温めている筆者。そこで随筆は終わる。

 

芸術や文学は問いを立てるだけで、後については読者や受け手に投げている。これが文学の寛容さであり、また掴み所のなさなのかなと。それに対してコンテンツは結論が出ている。「感動」「愛の大切さ」「友情」「笑い」…なんでもいい。しかし作り手のメッセージがほぼ明確だ。受け手はそのメッセージを受け取り、満足し、消費する。けれどそれを振り返ることはほぼない。

 

だから文学を読むときは「答え」ではなく「問い」に注目して読まないといろいろ読み落とすなと。

 

最近の本屋に並ぶビジネス本、啓発本、ダイエット本…全部結論だ。結論しかない。やめてくれ。僕に結論を押し付けるな。やめてくれ。そのしたり顔に反吐がでる。

 

僕が欲しいのは「問い」だ。

答えを性急に出さない「知性」だ。

 

しかしSNS時代、常にアウトプットを求められる時代、いろんな人が答えを発信し、いろんな人が答えを求める。…問いに対する意識が薄れても仕方ないのかな。

 

村上春樹がこの前のラジオで「いろんな疑問を大切にしましょう。僕は若葉マークともみじマークを同時につけてる人がなんでいないのか、とかなんで木枯らしは一号で、春一番は一番なのかが気になります。」と言ってて変な人だと思ったけど、たぶんあの人は「問い」の重要性を理解してる、のかな。

 

まぁ要するに文学を読んでも人生は何も解決しない。問いが増えて不安になるだけ。しかしその不安が人生を豊かにするのかもしれない。不安は可能性だと読み換えたい。

 

しかしコンテンツは怖い。自分の切実な悩みも分類化され、定型化され、処理され、消費される。それどころか人間がコンテンツ化に嬉々と応じる。その先は高速回転する鋭利な歯車群で、ちっぽけな承認欲求なんて粉々に千切れてゆくようにしか僕には見えない。千切れた結果、見下ろす冷笑に嗤いの蜘蛛の巣をかけられて晒される。そして次のコンテンツを探すため、好奇の飛び込み台に立つ人間の背筋の肉を人々の目が逃がさない。

 

惨憺たる鬱病患者の自殺と承認欲求のための鬱演技は等価値だ。ネットの海では。流れて流れて、そして消えてゆく。

 

話は変わる。織田信長の三男、信孝は次男信雄の命令により切腹した。その際、自らの腹に手を突っ込み贓物を引きづり出したという。そのとき飛び散った血がついた掛軸がまだ現存しているそうな。これが僕の思う自分語りのイメージだ。

 

自分語りは贓物の臭いがする。けれど人々はこの臭いが好きだ。獣のように集り、その贓物を綺麗に加工した私小説に感動する。最近はもっと手軽にブログやツイッターでも切腹できる。

 

吐き出してしまった自分と吐き出す前の自分は違う人間だ。もう戻れない。戻せない。お前はもう腹から贓物の垂らしたまま生きろ。哄笑しろ。もう綺麗なお前はいないんだ。さようなら。

 

自分語りとコンテンツ化は相性がいい。教会とオルガンくらい相性がいい。

 

追い詰められて決然と切腹するのではなく、切腹するために火の中に駆け込む人たちもいる。

 

人生はもっと繊細で、切実なはずだ。コンテンツ化に負けないくらい芯のある人生を送りたい。生の意義を愛するのではない。生そのものを愛するのだ。

 

私はこれからいろんな人を傷つけて生きる。生き残る。そしてそのうち過去にした酷い罪状に後悔しながら懺悔する。人を傷つけ尽くしたら、ひとしきり泣く。そして春の老いた微笑のように生き延びる。他者に尽くす。足元の草の花をもっとも大切にする人生を送る。

 

この程度のことはおそらくもう誰かが書いていて、書籍化だってしているだろう。しかしこれらの思考群は私の生活から生まれた。ただひたすら天井と壁と本に囲まれ、陰鬱とした日々の中で…ゆえにその一部を書き残す。文字にできなかった思考よ。さよなら。ごめんな。