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鬼ごっこ(短編小説)

商談の日が来てしまった。朝、仕事に行くとき、玄関を開けるときは背筋を伸ばす癖がある。背に芯をスッと入れる。肩を怒らせる。気合いを入れる。憂鬱だからこそ頑張ろう。

これは戦争だ。正念場だ。踏ん張りどころだ。僕の営業マンとしての価値が決まる。

 

僕は取引先の23階建の本社ビルと対峙した。覚悟を決めた。

 

少し早かったようだ。受付に名前と会社名を告げると、一室に通された。僕は白いソファに座り、資料を眺めていた。

 

数分して取引先の社員が二人入ってきた。一人はもう何度も顔を合わせているメガネの技術系担当者。もう一人はその補佐をしている頭のキレる女性社員…のはずだったが。

「実は今日、彼女はペットのカメレオンが病気になって動物病院に行くと言い出しましてね。急遽、代理を連れてきたんです。」

代理の男は…僕の同級生。

因縁の敵だ。同級生はにんまりこちらを見ていた。

 

同級生と僕はかけっこで一位、二位を競う二人だった。かけっこが小学生の階級闘争にとって重要な役割を果たしているのは自明である。そして彼と僕は壮絶な鬼ごっこを繰り広げた。僕が「体力の鬼」なら彼は「テクニックの鬼」だった。僕は機関車のごとく執念深く相手を追い詰め、フルフルと震える相手を押しつぶすのが得手だった。一方の彼は遊具を利用したり、予想もつかない切り返しで相手を翻弄するハンターだった。忘れもしない。すみれ小学校五年生の放課後の鬼ごっこの死闘を。僕のアイデンティティは全てそこにおいてきたと言っても過言ではない。彼との毎日の勝負は456戦228勝228敗。引き分け。最後の勝負は僕の負けだった。16時から始まって17時のチャイムのときに鬼だった方が負け、次の勝負は前回負けたほうが鬼をやるというシンプルかつ奥深いルールの鬼ごっこ。それは止まったままだった。

しかし今日出会うとはな…。

 

僕は駆け巡る回想とともに技術系社員との話し合いを進めた。同級生は急遽来た応援だからか、カマキリのような目で資料を追っている。頭の中に情報の卵でもつくっているんだろうか。

 

…僕は頭の片隅で回想を少しする。

 

457戦目は行われなかった。僕の父の転勤と同級生が交通事故で軽い怪我を負ったことが戦争の終結となった。ふと引越しの日のクラスのお別れ会を思い出した。最後に彼が松葉杖をつきながら窓から差す夕日をバックに握手をしてくれた。彼はにんまりと笑っていた。クラスみんなと握手した。少し涙が出そうだ。

 

今日俺は勝つ…この要求を呑ませて、ビッグビジネスを成功させる。部長や課長を驚かせる。そしてこのカマキリのように見つめ、ゴキブリのように追ってくる同級生に…勝つ。229勝は僕のものだ。

 

もう僕も社会人なんだ。鬼ごっこではなくてビジネスで勝負をつけたい。ちょうどいい。僕の営業マンとしての栄冠の日を20年越しのライバルとの勝利で飾るとは、僕に相応しいシチュエーションだ。

 

商談も煮詰まってきた。こちらの要求と相手の要求が2匹のクワガタの角のようにガッチリと組まれている。こちらのほうがやや優勢。双方、手に詰まる。技術系社員の広大な額から汗がスッと落ちる。

 

僕はそのとき、頭がスッとした。ミスに気づいた。背がぞっとした。ちょっとしたミスだ。しかしここを突かれたら相手の要求を呑まざる得ない。技術系社員は事務的なことにあまり頓着しない。かれは根っからの技術屋なのか、かれの頭脳爆弾は主にコスト面や技術面の戦場で投下された。(僕はよく爆撃機になった生真面目な技術系社員が生真面目に空襲してくる夢を見るようになっていた)、一方、それ以外のことは隣のメガネの頭がミキサーのように回る女性社員が指摘してきた。しかし今日は彼女はいない。いるのは同級生だ。彼がこのミスに気づけば、こちらの負けだ。お願いだ…気づかないでくれ。祈った。

 

契約書を読む同級生の目の動きが止まった…ニヤリと笑った。相変わらずカメムシみたいな笑い方だ。こいつは朝起きて虫に変身してもそのまま適応できそうだ。奴がこっちをジッと見る。

 

僕は彼の一言を待った。本当にベタだと思うが喉がゴクリと動いた。下手な小説でもあるまいに…

 

あぁ、気づかれたか。手の汗が湖になりそうだ。交渉決裂か。この勝負負けか…20年越しの対決はこの虫野郎に負けるのか…

 

「これで大丈夫だと思います。問題ありません。」同級生は技術系社員に契約書を返す。商談成立だ…?

 

「そうか。ではこれでいきましょう。いやぁ長い間、ありがとうございました。」と技術系社員。

 

僕は体の奥から嬉しさが湧き上がってきた。技術系社員と握手し、そして同級生とも握手した。

 

同級生「久しぶりだな」

僕「やぁやはり君だったか」

技術系社員「二人は知り合いだったのかい?」

同級生「小学校の同級生です」

 

僕は同級生のぬめっとした手としっかり握手した。それはお別れ会のときの握手と思い出させた。あのときも17時だった。同級生が耳元で呟いた。

 

 

「はい、タッチ。君が鬼だよ。」