大学生のための政治入門⑤自民党史
今回は前回の続きです。派閥というものに注目しながら自民党史を紐解くというのが今回の記事の目的です。
佐藤内閣は政治基盤としてかなり強い内閣だったといえるでしょう。約7年8ヶ月(2798日)という最長記録を出します(現首相の安倍総理は9月20日時点で歴代5位の2461日)
その業績についてもっとも有名なのは沖縄返還問題でしょう。
ただ自民党の地盤が盤石かといえばそうではなく例えば東京知事選で美濃部亮吉に、大阪では黒田了一に負けるなど衰退の兆しが見えた時期でもありました。
佐藤内閣の長期化を可能にしたものとして派閥のリーダーであった大野、河野、池田などが相次いで亡くなったことや福田派の支持や佐藤派の田中角栄の働きがあったといえます。
この間、他の派閥でも異変があり前尾派から大平正芳が新しいリーダーになり、旧河野派から中曽根が台頭するなど世代交代が進んだ時期でもありました。
また佐藤内閣時代の特徴として二世議員の増加が挙げられます。すでに述べた個人後援会を基盤に二世議員が誕生します。例えば橋本龍太郎、河野洋平、小沢一郎、羽田孜、小泉純一郎などのちの政界に大きな影響を与える政治家がこの時期に当選します。先ほど述べた通り自民党の選挙基盤は緩みつつありましたが、二世議員はそのなかでも当選率の高い貴重な予備軍だったと言えます。
⑦田中角栄と列島改造
1972年の自民党総裁選では田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫がぶつかり、特に田中と福田がしのぎを削ります。いわゆる角福戦争です。
田中角栄といえば「コンピュータつきブルドーザー」と称された政治家ですが注目すべきは議員立法の多さです。日本では立法提案のうち多くは政府(内閣や官庁)から提出されますが、議員立法は少ない傾向にあります。しかし田中が提出者となって立法したのは33と他の議員と比べ断然、成果を上げています。
安倍さんが石破さんや石破支持の議員を内閣に起用するのを見送ったという報道がありましたが、田中も福田派を冷遇します。
田中角栄といえば列島改造計画などぶち上げ、国民からの人気はかなり高いイメージがあります。
しかし1972年の解散総選挙では288あった議席は271議席まで減少します。ただ依然として多数派であったため田中は特に追及されませんでした。
また田中角栄といえば後年のロッキード事件の影響もあり、いわゆる「カネと政治」のイメージもありますが、自民党政治において派閥の拡大に大量の資金が必要になってきた時期でもありました。こういった資金調達能力に田中は長けていました。
自民党は国民への新しいアプローチを模索することになります。
⑧三木武夫
田中の次に総裁となったのは三木でした。田中に対する批判が非常に強かった当時、福田、大平、三木が総裁に名乗りを上げました。その裁定にあたった椎名副総裁ですが、椎名が指名したのは三木でした。
続きを書こうかと思いましたが日曜日だし、疲れたのでまた次回。
大学生のための政治入門④自民党の歴史(前編)
自民党総裁選で安倍さんが勝ちましたね。
総裁選は自民党のなかでの選挙なので自民党の党員にしか投票権はありませんが、実質的には総理を決める選挙なので注目度が高いですね。
さて永きにわたり政権を維持している自民党ですが、その自民党の歴史について正確に説明できますか?
まぁ僕も理解したのは大学入ったからですし、そもそも高校では現代史をほとんど扱わないので知らない人が多くても仕方ない気がします。しかし現代史がかなり重要であることは皆さんも心のどこかで思っているのではないでしょうか。
社会学者の西田亮介さんも「なぜ政治はわかりにくいのか: 社会と民主主義をとらえなおす」のなかで現代史の教育の必要性に言及しています。
今回は自民党の歴史について、入門として書いていこうと思います。
この自民党史では「派閥」に注目して見ていきます。戦前の政党には自民党ほど派閥というのものは明確化していませんでした。派閥は自民党を特徴づける重要な要素となります。
①二つの保守党(1954年)
1954年、自由党の総裁である吉田が総理でしたが、自由党内部では総裁の座、路線をめぐり鳩山一郎を中心とした反吉田派が形成されていました。
1954年11月8日、自由党から岸が除名されますが、それに呼応し鳩山派、岸派など反吉田派が離脱します。そして1954年11月24日に鳩山一郎を総裁とする日本民主党が結党します。
ここに自由党と日本民主党という二つの保守政党が生まれることになります。
1954年12月7日には反吉田派の勢いが止められず吉田は総辞職します。そして12月9日に、首班指名投票に勝った鳩山一郎が総理となります。
②保守合同(1955年)
政権が法案を通し、政策を実施するには全体で単独過半数の議席が必要です。1955年に、民主党の鳩山一郎は議会を解散し、総選挙をしました。結果、185議席を獲得する大勝利でしたが、単独過半数には届きませんでした。
また当時、国際情勢は冷戦の最中であり、資本主義と共産主義の対立が深まります。これを背景に保守政党と対立する社会党が発展し、議席を伸ばしていきました。鳩山は社会党に対抗して、安定政権をつくるため自由党と手を組むことにしました。これが保守合同であり、自民党の誕生です。
保守合同とは
という異なった路線をとる保守政党が融合したのです。上の三つを見るだけでもかなり違った方針を二つの党が持っていたことを覚えておいてください。
③1956年の総裁選と派閥の誕生
鳩山の後継を決める1956年の自民党総裁選は岸信介、石橋湛山、石井光次郎の三者で争うことになります。このとき、優位と伝えられていた岸派に対し、石橋派と石井派が手を組み、下馬評をひっくり返して石橋湛山が首相の座を射止めました。
この総裁選において自民党の代名詞とも言える「派閥」が明確化されます。
<自由党系>
吉田派→池田派と佐藤派
緒方派→石井派
大野派
※緒方派とは自由党の副総裁を務めた緒方竹虎の派閥。緒方は1956年1月に急死
<日本民主党系>
石橋派
岸派
〈旧改進党系〉
三木・松村派
これらの派閥のうち宮沢政権誕生時(1991年)に
岸→三塚
佐藤→竹下
池田→宮沢
河野→中曽根
三木・松村→河本
という形で生き延びています。このときの総裁選で派閥の原型ができ、基本単位として重要な要素になったことは記憶しておいてよいでしょう。
④岸信介と安保改定
石橋湛山が1957年に肺炎で倒れると後継に岸信介が首相となります。
岸信介といえば安保改定がもっとも有名かと思います。対米外交について岸から吉田や鳩山を見ると、吉田は対米協調に偏りすぎであり、鳩山は対米独立に偏りすぎていました。この協調と独立のあいだに岸は政治的将来を賭けたといえるでしょう。
北岡教授によると岸の遺産と教訓は自民党政権に深く根ざし、日米協調こそが自民党総裁の条件になったといいます。55年体制に対し、北岡教授はこの岸の遺産を60年体制と呼び、55年体制と峻別し、自民党の長期政権を可能にしたと主張します。
岸は安保改定を達成し、政界を引退しました。
⑤池田勇人と所得倍増
池田は所得倍増計画を打ち出すと同時に安保改定推進派が政治の主流を占めるよう人事を行います。例えば安保の採決の本会議に欠席した河野派を冷遇しました。
また興味深いことに派閥の解消と政党の近代化が議論されるようになります。
福田赳夫が「派閥の解消せよ」と池田を批判をするのを池田は受けて、派閥の除去に取り組みます。1963年に党近代化の答申を受けて「派閥の解消」を宣言するが、まったく実現されませんでした。
これは派閥が中選挙区制度と総裁公選制度を理由に形成されたものであるからであり、精神論ではどうにもならなかったのです。
中選挙区とは一つの選挙区から複数人(三人とか)当選する制度です。現在は、小選挙区制であり、一つの地区から1人しか当選しません。
三人が当選する中選挙区で例えば二人のうち誰が自民党から出馬するか決めなければなりません。それを決めるのが派閥の領袖です。そして領袖は立候補者に選挙区を配分し、当選させる代わりに総裁公選で自らに票を入れるようにします。
また高度成長によって農村が解体されていくと地方有力者から票を集めるのではなく、「個人後援会」組織によって集票をするようになります。
今の我々の知る自民党の姿に近くなってきました。
(後編に続く)
参考文献 北岡 伸一
「自民党―政権党の38年 」(中公文庫)
新潮45を読んで
本当は自民党史について書くつもりだったが、時事に乗っかって新潮45を読んでみた。一つ、気になったことがあったからである。
小川榮太郎氏の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」というタイトルである。このタイトルに引っかかり近くの図書館で新潮45を読んでみた。(買う勇気はない)
これを読んで僕が思い出したのは福田恆存の「一匹と九十九匹と」という文章である。
【福田恆存とは】
保守派の文芸評論家であり、東京大学英文科を卒業後、翻訳、劇作、評論活動を行う。シェイクスピアやロレンスの翻訳をした。ハムレットの翻訳演出で芸術選奨文部大臣賞をうける。1994年没。
福田は「一匹と九十九匹と」のなかで政治と文学の峻別を説くのである。
まず福田は「混乱の季節のなかにあつて政治のことばで文学を語る習慣」に疑問を呈する。
人々は「政治家の目的と文学者の目的とはおなじであり、ともに人間の解放と幸福のためにたたかふ戦士」だと思っているが、それは違うと福田はいう。
「その創造のいとなみを、その由ついてきたるところをかならずしも理解しえぬのみならず、またそれを理解する必要はない。」
「たがひに相手のいとなみを理解しようとし、また理解したとおもひこむ習慣が、相手をおのれの理解のうちに閉ぢこめてしまひ、その完全ないとなみを妨げる。」
「政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ。」
「政治と文学とは本来相反する方向にむかふべきものであり、たがひにその混同を排しなければならない。」
福田は政治と文学の峻別を説く。まさに人間の理性を懐疑する保守派と言うべきか。
福田自身が政治と文学を峻別してきたのは「知性や行動によって解決のつく問題を思想や個性の場で考へ、それをいたづらにうごきのとれぬものと化するあまやちを避けたかつたからである。」という。
「知性や行動の場」とは政治のことであり、「思想や個性の場」とは文学のことであろう。
さらに福田は聖書の言葉
「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」を引用してこう述べる。
「このことばこそ政治と文学との差異をおそらく人類最初に感取した精神のそれである」と。
つまり「九十九匹」を救うのが政治であり、消えてしまった「一匹」を救うのが文学であると福田は説く。そのうえで「文学にしてなほ失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」
「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する。」と続く。
福田恆存は文章が良いのでついつい長く引用してしまう。
この後も福田の考察は続きますが、一旦「新潮45」の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」に戻ります。
福田のこの考察を踏まえて、小川榮太郎氏のタイトルだけ読んだら僕は「あぁ、確かになるほど」と頷いてしまうのです。
「生きづらさ」という主観は確かに政治では救えず、救うのは文学です。
誤解して欲しくないですが僕は新潮45をめぐる差別論争に加わる気もないですし、そもそも前提知識がなさすぎて加われません。LGBTでもないし、LGBT運動に参加したこともない。ただ様々な理由で「生きづらさ」は感じています。だから文学ばかり読むのです。
僕が考えたいのは政治と文学の峻別の線がまた変わろうとする時代なのだなということです。かつて黒人差別は政治の世界ではなかった。しかし様々な運動家たちや啓発活動により黒人差別を「政治」の世界にまで持ってきて、差別撤廃に至った。つまり政治と文学の境界線が動いたわけです。この偉業に対し僕自身もこの上ない賛意を示します。
ちなみに黒人の生きづらさを扱った小説で有名なのは「アンクル・トムの小屋」でしょうか。
今回のような騒動が起こった背景にはそのような政治と文学の峻別の線が動きつつあるんだなと感じたのです。それがどのような結果が相応しく、またどうなるかは私の理解を超えます。
ただ政治が全てを救えるはずはないでしょう。人々が個々に抱えている個人的な生きづらさを政治に委ねますか?
極端な例を出すと失恋に苦しみ、生きづらさを感じる青年に対し、政府が予算を組んで「失恋対策本部」を立ち上げ、カウンセラーを置きますか?そういった失恋は文学で癒すべきです。
LGBTの方々が政治的な困難に直面し、それを解決するために動きだす、そのこと自体は否定されるべきではないですし、LGBT差別というものがあれば断じて許すべきではないでしょう。
ただ僕は小川榮太郎氏のタイトルだけ見て「あぁ、なるほど」と頷き(内容に賛成したわけではありません)、福田恆存の言葉を思い出した。それだけです。
これを機に福田恆存について知る人が増えればいいなと思います。
僕のような弱小駆け出しブロガーが炎上するほど注目されるとも思いませんが、何度も言いますが「新潮45」や杉田論文擁護、小川榮太郎氏の論説に賛成したわけではないです。
参考文献「保守とは何か」福田恆存
なお引用に際し、本来旧字体が使われている箇所もありますが新字体で書いております。福田自身が現代仮名遣いを批判していたことも承知ですが、読みやすさを優先し、新字体としました。ご理解のほどお願いいたします。
三島・太宰・ヘミングウェイ・フィッツジェラルド
「僕は太宰さんの文学はきらひなんです」(「私の遍歴時代」三島由紀夫)
三島由紀夫と太宰治はわざわざ説明する必要もないだろう。日本を代表する人気作家である二人が対照的な作家であったことは興味深い。
僕が今回書きたいのは二人の作家の文学論ではなく、それ以前の人間関係というか舞台についてだ。想像に必要な舞台について。
太宰はまるで土下座をするような卑屈さを感じさせ、三島は見上げるかのような超然さを感じさせる。弱さの文学と強さの文学というべきか。
三島は「太宰治について」でこう述べる。
「文学でも強い文体は弱い文体よりも美しい。…強さは弱さよりも佳く、独立不覊は甘えよりも佳く、征服者は道化よりも佳い。太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは…この男の狡猾さである。」
腕を組みながら太宰は「狡猾」だと喝破する三島と、頭を抱えながら、ちらと三島を見て、無言を貫く太宰。
ただその二人もいわば「同族嫌悪」というべき関係だったことも作品を読むとわかる。
太宰の「人間失格」、三島の「仮面の告白」、両者を読んでわかることの一つに「生の無意味さの実感」があるだろう。
例えば「仮面の告白」での「人間が御飯をたべるといふ習慣がこれほど無意味に見えたことはなかった」
そして「人間失格」での「めしを食べなければ死ぬ、といふ言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞こえませんでした。」
食事という「生」の根本を通し、両者が「生の無意味さ」に苛まれていることが確認できる。驚くほど似ている。
私は読者に三島と太宰が邂逅したときの場面を想像してもらえるような舞台をつくりたい。
僕は三島が太宰に「きらひなんです」と言った顔を想像するだけで楽しくなる。
冒頭に挙げた三島の「きらひ」発言に対し、太宰の反応に定説がない。
三島によると太宰は一瞬たじろぎ「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と誰にいうなく呟いたという。
しかし、この席の斡旋役だった野原一夫によると太宰は「きらいなら、来なけりゃいいじゃねぇか。」と吐き捨てたという。
どちらなのか、はたまた両方なのか。
あとは理屈ではなく想像に任せたい。
ちなみにYouTubeで三島由紀夫が太宰を「危険で才能のある作家」と評した動画あるので興味があればどうぞ。
https://m.youtube.com/watch?v=3NqLbLozrKM
僕は太宰と三島を見ているとヘミングウェイとフィッジェラルドを思い出す。
ヘミングウェイは男性的で強い作品を書く一方、フィッジェラルドは女性的で本当に儚い作品を書く。ただ彼らは太宰・三島と違い非常に仲が良かった。
性格が違ったからだろう。
ヘミングウェイとフィッジェラルドの手紙のやりとりを見ていくとお互いが本当に心を許し、信頼しあっているのがわかる。
「何とかして、君に会えるといいのに。君は僕にとってたった一人の男だ。ヨーロッパの内外でぼくがほめ言葉(あるいは悪口)を言いたい放題言える相手は君だけだ。」(ヘミングウェイからフィッジェラルドへの手紙 1926年11月24日頃)
「この一年半の間、君の友情がぼくにとってどれほどかけがえのないものだったか、言葉では表せないーヨーロッパ滞在中のぼくにとって最もすばらしいものだった」
(フィッジェラルドからヘミングウェイへの手紙 1926年12月23日)
彼らが会ったのは1925年の5月のパリ、ドランブル街のディンゴ酒場である。このとき28歳のフィッジェラルドは「グレート・ギャツビー」と短編集「すべて悲しき若者たち」を書き上げ、作家としての地位を確立しつつあった一方、25歳のヘミングウェイは「日はまた昇る」を書いたものの経済的には困窮していた。
しかし1930年代には二人の地位は逆転する。ヘミングウェイはフィッジェラルドに小説を書くよう説得するが、フィッジェラルドは自暴自棄になり、凋落の一途をたどる。
彼らの友情にもヒビが見えてくる。
「いいかい、兄貴は悲劇的な人間なんかじゃない。ぼくだって、違う。ぼくたちは作家以外の何者でもなく、成すべきことは、書くことだ。」
(ヘミングウェイからフィッジェラルドへの手紙 1934年5月28日)
ヘミングウェイの悲痛な叫び。
「ぼくたち、もっとたくさん会えるといいのに。ぼくは君のことを全然分かってないような気がしている。」(1937年6月5日 フィッジェラルドからヘミングウェイへの手紙)
フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャッビー」の最後は力強く嵐の海を進む舟であったが、晩年のフィッツジェラルドはゆっくりと海へ入水するかのように、発狂した妻ゼルダを遺し、愛人シーラの部屋でアルコールの底へ沈んでゆく。まるで太宰のように。1940年没。享年44歳。
太宰は1948年、39歳のとき、愛人山崎富栄と入水自殺。
その後、ヘミングウェイは1953年にピューリッツァー賞、1954年にノーベル文学賞を受賞し文学者として名声を極めるも、1961年にアイダホ州ケッチャムの自宅で猟銃自殺。享年61歳。
三島も国際的な名声を得つつ、1970年に割腹自殺した。享年45歳。
みんな死んでしまった。
大学生による大学生のための政治入門③
前回まで「保守とリベラル」「自分の頭で考える」ということを述べてきたので、今回は僕なりの情報収集手段について述べたい。
読書面と行動面の二つに分けてお話しする。
【読書】
①複数の新聞を読む。
新聞を読むだけでなく、複数の新聞を比較しながら読むことをお勧めする。
偏った情報源ばかりでは偏った意見しか生まれない。
ただいきなり複数読むのはつらいと思うのでまずは一紙を読み続け、そのあと1ヶ月ぐらいしたら二紙、三紙と増やしたらどうだろうか。
またニューヨークタイムズなど海外紙も読めると視野が広がると思う。(僕自身、やろうと思いつつできてないが)
僕は家庭で読売新聞を読み続けていたが、大学生になってからは日本経済新聞と朝日新聞も読むようになった。
忙しいときは一面のみを見比べているがそれでも学ぶことは多い。
まず見比べるべき点は一面で何を取り上げているか。やはり震災などあると震災が一面になるが、政策などになると各紙の特徴が出る。例えば外国人労働者は日経がかなり追いかけている。
また沖縄基地や原発については各紙、かなり色が違うので違いを学ぶ上ではかなり良い材料だと思う。
また逆に取り上げていない、他の新聞では大きく取り上げているのに小さく扱っているなども見比べると特徴が出てくる。
一つの新聞に真実が書かれているのではなく、複数を見比べることで真実が浮き上がってくるのだと僕は思っている。
家で新聞をとっていない?公立の図書館や大学図書館に行けば必ずある。
②高校の政経の教科書
実はかなり優秀。通読しても良いし、わからない言葉が出たときに参照するのでも使える。
③政治学の基本書
おそらくもっともベーシックな政治学の基本書は
久米郁男 川出良枝 古城佳子
ではなかろうか。ここから様々な文献に飛ぶことで体系的に政治学を学べると思う。
ほかに個人的にお世話になったテキストを挙げると
やや難。しかし大いに勉強になる。現在(2018年9月19日現在)著者の佐々木毅教授が読売新聞で「学問と政治」という自伝的コラムを連載されている。
砂原庸介 稗田健志 多湖淳
読みやすい。平易な言葉で明快に説明してくれる。上の「政治学」と合わせて読むと効果抜群。
他のおすすめ
「18歳からの政治入門」日本経済新聞政治部
「現代政治理論」有斐閣アルマ
川崎修 杉田敦
「自民党―政権党の38年」 (中公文庫)
※③を補足するものとして
公務員試験用のテキストがオススメです。深みはないですが簡潔にまとめてくれてるので概要を理解するのに役立ちます。
公務員試験予備校のTACが出している「Vテキスト 政治学」など
本なんか読んでられねぇーよぉという人にお勧めするのは以下の2つ
①議員インターン
民間企業のインターンが最近流行っているが、議員インターンもある。僕が利用したのは特定非営利活動法人ドットジェイピーだ。
学生スタッフが運営しているが、説明会、インターン時の保険加入や議員のマッチングまでとても丁寧だった。初インターンの日は学生スタッフが議員会館まで同行してくれたので非常にありがたい。
ただし僕の場合は特に問題なくインターンを終えられたが、一般化はできず、あくまで個人的な感想であると述べておく。
また僕はドットジェイピーの関係者でもなんでもなく利用者の一人に過ぎない。
僕は某国会議員のところでインターンしたが、議員と官僚の打ち合わせ、委員会の傍聴、国会でつくるフリップの作成などやらせてもらい勉強になった。
1つ後悔するなら漠然と参加するのではなくて疑問をいくつかもって議員や秘書の方にぶつければよかったと思っている。(当時は知識がなさすぎてできなかったが)
ちなみに民間企業で就職活動をしたときに議員インターンのことも聞かれた。プラスになったかどうかはわからないが、マイナスになったと感じたことはない。
②省庁や県庁の説明会
省庁や県庁は民間と違い、年中説明会をやっている。別に公務員を目指さなくても参加できるので気になる政策があったら霞ヶ関や県庁まで足を運ぶのもありだと思う。現役官僚や県庁職員と会って質問できる機会はなかなかない。
説明会でも全く国家公務員に興味なかったけど参加してみましたという学生を歓迎する風潮があるように感じた。国家公務員が外に意見発信するのは民間に比べると難しいので、数少ないアピールできる機会として嬉しいのかもしれない。
別に大学名とかも聞かれないので東大生じゃなくても大丈夫だ。
※ただし国家公務員試験直前〜官庁訪問の4月〜8月はやめたほうがいいかもしれない。こちらは本当に採用活動期になので採用担当の国家公務員からしても就職活動中の学生からしてもあまり歓迎されない気がする。(あくまで予想)
ここまでとりあげてきた「情報収集」というのはあまり党派色のない情報収集のやり方だ。(全く無色とは言っていない)
もちろん特定政党のイベントに行くのもいいと思うが、やはり党の色があるのでそれを真実だと思い込んでしまうとあとあと面倒なことになると思う。
最後に
最近よく「中道」だの「右でも左でもない」だの「中立」だの言うが、本当に中立で無色な情報などないだろう。どの情報も何かしらの「色」がある。(僕のブログだって色があるだろう。無いように努力はしているが)
本当にやるべきはその色を意識したうえで、様々な情報を集め、偏見や思い込みを減らす努力をすることだろう。
真実なんてないと思いつつも、真実を探したいと言う矛盾から生まれる知的好奇心のみが人間を自由にするのではないか。
と思っていたら先日、次のようなニュースを見て、人間の難しさを感じた。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018090100432&g=int
とにかく、この記事が皆さんの何かの参考になれば幸いである。
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次は文学について書く予定。
母を殺すということ・自由について【文学】
【小説「マイケル・K」を読む】
作家クッツェーは南アフリカのケープタウンで生まれのヨーロッパ系白人です。
2003年にノーベル文学賞を受賞し、現在も精力的に作品や文芸批評を書いている作家です。
このクッツェーの「マイケル・K」という小説について「母」という観点で論じていこうと思います。この記事を読んだ人のなかで一人でも「マイケル・K」を読もうという気になったら僕の目的は達成です。
【物語のあらすじ】
舞台は戦争中の南アフリカのシーポイント。主人公はマイケル・Kという31歳の男です。Kは口唇裂という障害に加え、頭の回転が遅く、学校から追い出されます。他人と接するのが苦手で、一人でいることが気楽な男です。暴漢に襲われ、あばら骨を折られる事故にあった後、市役所の庭師として働いています。
Kは幼い頃から考え続けた「なぜ自分がこの世に生まれてきたのかという難題」に対し「母親の面倒を見るために生まれたのだ」と答えを出します。
Kが31歳のとき、母親が病院から退院した知らせを受け取ります。年老いた母親はふと街を出て少女時代を過ごした田舎プリンスアルバートに帰りたいと夢想します。
「どうせ死ぬのなら、せめて青空の下で死にたい。」母親はそう言います。
Kは暴力、貧困、混乱の街で許可証をもらい街を出て、母親を故郷プリンスアルバートに送ろうと努力します。なかなか降りない許可証に苛立ったり、暴漢に会いながら母親を手押し車に乗せてKはプリンスアルバートを目指しますが、途中体調が悪くなった母親はそのまま寄った病院で亡くなります。
その後、天涯孤独になったKは一人で母親の故郷に向かいます。彼は自由を謳歌して過ごします。廃屋や洞窟に住み、畑を耕し、貯水池からかぼちゃとメロンに水を運ぶ日々。
それはまるで「時間の外側のポケットに入ったよう」なゆったりとした時間でした。
「好きでもない労働からあちこち盗むように再利用する自由時間ではなく…時そのものに、時の流れに身を委ねるような、この世界の地表いちめんにゆっくりと流れ、彼の身体を洗い流し、腋の下や股下で渦を巻きながら瞼を揺らすような時間」
しかしその途中、放火犯に間違えられ、さらにゲリラ部隊に食糧を提供していたと疑われ、警察に拘束されます。飢えていたKは診療所に送られますが、この後の場面からはこの診療所の若い医師の目線でKについて語られます。
ひとまずあらすじはここまでにしておきます。後半にあらすじと絡めながら論じていきます。
【母を殺せない】
文学とは「父」を殺すことにあると私は思う。父とは生殖的な意味だけでなく、神、規範、道徳、封建制、絶対的なものとして象徴されるものの総称である。
一方、母は一つの安心領域である。聖母マリアに代表されるような慈愛に満ちた存在。
父は越えるべき壁であり、母は帰ることのできる故郷である。その機能は相反するといえよう。壁を越えようとし、疲れれば故郷で回復し、また壁を越えようと試みる。あくまで故郷は存在したまま壁を変える必要がある。
【追記】おそらくこのような文学観は社会の変化、つまり女性の自立、大きな物語の喪失、グローバル化によって大きな変容を迫られるだろう。
Kには父親の影が一切ない。そしてKは母から脱するどころか、「母親を守り続ける」という規範を「父」として選んだ。
上で壁としての父と故郷としての母は相反すると書いたが、Kの場合、父と母が癒着しているのだ。
「母親を守り続ける」という規範を乗り越えようとすればKは故郷(母親)を破壊することになる。もちろん規範に従えば彼は故郷からでることは一切できない。
これが父と母の癒着である。規範と故郷の同一化とも言えるかもしれない。父/母ではなく父=母
母親が亡くなった後、Kは母親に対してどのような思いを抱いているのか。
「ここでずっと生きていたい。母が、そして祖母が生きていた場所」
「第二の女性を探した。母親をこの世に送り出した女性。」
「母の夢も見た。…彼女は若くて美しかった。…嬉しさに浮き浮きしていたのだ。…虚空に危うく運び去られようとしているのがわかった。それでも恐怖はなかった。自分が飛べるのはわかっていたから。」
「だれだってみんな母親から離れていくんだ。それとも俺は、離れられずに、こうして死ぬために、母親の膝の上にのっけて死ぬためにもどってこなけりゃならないような子どもなのか?」
Kは母親を憎むばかりか、祖母にまで思いを馳せ、母親の故郷に愛着を寄せる。死者は土に還るというアフリカの思想が反映され、まさに彼にとっての母は「土地」へと変化する。まさに「母なる大地」である。「母」の拡大である。
彼は母親が死んだ後も「母親を守り続ける」という規範を愚直に守り続け、母親の故郷で生き延びることを願うのである。
そうしないと自己が崩壊するからであろう。
人は父を殺し、自らが父になることで自立することができる。自らの内側が形成される。判断基準や自己の規範が確立される。
しかし父と母の癒着のなかで育ったKは父になることができない。自己の基準がない。「石」なのである。実際にKは父親になることを心から忌避している。
「人の父親になりたいという欲望がなくて本当によかった」
「最悪の父親になってしまう。」
父になる、ならないじゃない。父に「なれない」んじゃないか。K。
ここからは後半の若い医師の言葉を借りてKについて考えたい。
自由を享受していたKは途中、放火犯とゲリラへの協力が疑われ、国家に拘束されてしまう。
若い医師に対し沈黙を守るK。医師は痺れを切らす。
「話すなんて簡単だろ。わかってるよな。話せよ。」
「自分に中身を与えてみろ、なあ、さもないときみはだれにも知られずにこの世からずり落ちてしまうことになるぞ。」
「ただの死者の一人になりたくないだろ?生きていたいだろ?だったら、話すんだ、自分の声を聞かせろ、きみの話を語れ!」
Kは語らないのではない。語れないんだ。中身がないんだ。Kは石なんだ。父を殺す機会を与えられず、故郷に縛られ、やっと30歳を越えて初めて、自立と自由を享受しようとしていたのだ。
しかし国家が、歴史が、戦争が、それをKに許さなかった。
Kの診察をする若い医師はこうKに語りかける。
「きみはもっと若いころに自分の母親から逃げ出すべきだったな、話を聞くかぎり、彼女こそ本物の殺人者のように聞こえるよ。母親からできるだけ遠い茂みに行き、自立した人生を始めるべきだった。」
ついに医師は同僚のノエルにこう言い放つ
「やつ(K)はわれわれの世界の人間じゃない。自分だけの世界に生きているんです。」
診療所でKは一切の食事を拒否する。生きることに無関心となる。黙秘を貫く。そしてKは最後、診療所から逃亡する。
若い医師は言う。彼は徐々にKを理解しようとする。
「たぶん、自由というパンしか食べないのかもしれない」
「キャンプの食べ物を君が食べようとしないのは…マナの味がきみの味覚を永久に麻痺させたとでもいうのか?」
「マイケルズ、きみをあんなふうに扱って、許してくれ、きみがだれなのか、つい最近まで正しく理解していなかったんだ。」
「どんな地図にも載っていない、どんな道をたどってもただの道であるかぎり行き着けない、そこへ至る道は君だけが知っているんだ。」
Kが初めて診療所に来たときと打って変わった評価だ。
私はこう解釈する。
Kは「父と母の癒着」により、自己の基準がない、「石」のような男だった。しかし彼は祖母・母の故郷で自由な時間を過ごし、自立した生活を送るなかで、自由を全身で享受する。Kは我々のように自由を簡単に手放したりしない。自由のためなら餓死すら厭わない「石」の男となった。自由を奪った戦争、それを起こす国家に対して全身で拒否の意を示す。自由のためなら食事だって拒否する。
他の人間から見ればもはや別の生き物にすら見える。嘲笑も買う。しかし若い医師はマイケルが逃げてから理解した。彼こそが自由を体現した男だと。口唇裂で、学もなく、職もなく、女も寄り付かない、妻も子もいない、天涯孤独で、黙秘を貫き、食事すら拒否するこの冴えない男が自由の人だと気づいた。
母親はKを厭わしく思っていたかもしれない。しかしそれでもKは最後まで母を殺さなかった。そして辿り着いた母の故郷で、全身に染み込む自由を手に入れた。
もしKが母を殺し、つまり否定し、例えば母親の故郷に向かわずシーポイントで働き始め、人びとの中で暮らせばKは自由を獲得できなかっただろう。
人間は父を殺して人になると書いたが、Kは父も殺さず、母も殺さず、すべてを受け入れ、自由を獲得した。それは普通の人間ではなし得ない、ある意味人間より動物に近いKのみが知る「道」なのではないか。
ここまで読んでアルベール・カミュを思い出す。全てに「ノン」を貫き、自由について考え抜いた男。
マイケル・Kの冒頭はこのような詩から始まる。
戦争はすべての父であり、すべての王である。
それはあるものを神として示し、あるものを人として示す。
あるものを奴隷となし、またあるものを自由の身となす。
やはり母は殺せないのである。
大学生による大学生のための政治入門②間違ってもええんちゃう?
政治といえば選挙である。選挙とは我々国民が議員たちを雇ったり、解雇することができる絶大な権利だ。多くの議員たちはこの選挙にふるえている。
僕はとある国会議員のインターンを数ヶ月したことがあるが、議員さんとはほとんど会えなかった。議員さんは常に東京と選挙区を行ったり来たりして支持者と話しているようで、永田町の議員会館でお世話になったのは秘書の方たちだ。それくらい議員は支持者を大事にしているし、選挙は怖い。
国政選挙は自民党が勝つのでおもしろくないかもしれないが、そんななかでもやたら選挙に強い野党議員もいるし、地方選挙では自民党が負けることもある。2017年の東京都議会議員選挙(定数127)では都民ファーストの会(小池都知事がつくった政党)が告示前の6議席から55議席へと圧勝した。一方で自民党は告示前の57議席から23議席と半数以下に落ち込む歴史的な敗北を喫した。
よく聞かれる学生の悩みとして「正しい選択をできる自信がない」という悩みだ。いろんな候補者がいるなかでどんな主張をし、どんな人物かわからないという。
清田雄治さんが行なった愛知教育大学におけるアンケートでも棄権した39%の学生の棄権理由として
1 政治や選挙に関心がない
2 選挙の争点や政策をよく知らない
3 政党や候補者をよく知らない
が約3分の1の割合を占めている。
…いや、普通にわからんでしょ。わかるまで待ってたら選挙行けなくないか?そもそも正しい選択ってなに?
と僕は思ってしまう。
確かに選挙権は重要で重い権利だ。その重さゆえにぶん投げたくなる気持ちもわからなくはない。しかし安心すべきことに選挙権は18歳以上なら日本国民全員に与えられている。過度に重く感じる必要はない。
この「自信がない」という心配は「結果にこだわりすぎ」ということだろう。もっとプロセスに目を向けても良いのではないか?
僕は別にみんなが無理して選挙に行くのが良いとは思わないし、ましてや義務投票制もあまり賛成できない。ただ「正しい選択」というありもしない概念に惑わされて、行使されない選挙権を見るともったいないなぁと思うのだ。
結果だけでなくプロセスに目を向ける試みとして、ルソーの思想を引用したい。
ルソーは1712年ジュネーブで時計職人の子どもとして生まれる。ルソーが生まれた直後に母親が亡くなったことが彼の思想に影響を与えているという。「人間不平等起源論」「エミール」「社会契約論」「孤独な散歩者の夢想」など書き上げ、政治、文学、教育などの分野で大きな影響を後世に与えた。
また「告白」と言う自伝のなかで自らが露出狂であると述べている。
ルソーの影響の大きさを示すエピソードとしてジャコバン派による改葬があるだろう。フランス革命の主導権を握り、恐怖政治を敷いたジャコバン派は、ポプラ島に埋葬されていたルソーの遺骸をパンテオンに移送し、改めて葬ったという。これは諸党派がルソーの思想を誰が取り込むかという争いをするなかで、ルソーの遺産を受け継いだことをジャコバン派政府が示したかったと言われる。
ルソーは有名な「社会契約論」で「一般意志」について述べる。
一般意志とは「国家の意志」であり、その特徴として「国家すべての成員の幸福を目的とする」意志である。一般意志は「共同の利益を目的」する。これは全員の個別意志が一致したに過ぎない「全体意志」とは異なる。
この一般意志の現れが「法」だと彼は説く。まさに人民主権の思想だ。
そしてルソーは「わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれる」という。
例えば働く人々の労働時間や解雇について定めている労働法を制定、改正するときを考える。ある人は「解雇規制は今まで通りにすべき」と言い、ある人は「解雇規制を緩めて、労働力の流れをつくるのが大切」だと言う。あるいは「養う家族のいない独身者の解雇は緩くすべき」と述べ、「低所得者は解雇規制をしっかりするべきだ」と言うかもしれない。これらの意見の「違い」が「一般意志」を生むとルソーは言う。「わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれる」という。意見が違えば違うほど市民は問題を正確に認識し、真の利益を知るという。
ここでルソーはおもしろいことを言っており「人民が十分な情報をもって議論を尽くし、互いに前もって『根回しをしなければ』(筆者強調)、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。」と言う。
根回しをし、「徒党を組む」と「意見の違いが少なくな」り「意志の一般性も低くなる」という。
ネットやツイッターでは政治にお詳しい人たちがワーワー言っており、なにが正しいかわからない。なにか政治的意見を言えば、ツイッター政治警察が飛んできてクソリプを飛ばしてくる。
はっきり言ってそんなの無視すれば良いのだ。徒党を組む前に、個人として考える。餌を与えられる金魚のように「意見」を与えられるのではなく、個人としてできるところまで考える。そして「意見の違い」を大切にしてみる。もっと個人の率直な意見を大切にするべきだろう。(もちろん事実誤認や勘違い等は訂正しなければならない)
日本人は異様に意見を持つことを恐れすぎている。同時に意見を持つ人間を恐れすぎている。息苦しいことこの上ない。
自分で情報をできるだけ多方面から集め、自分の頭で考えた意見をもとに投票する。そして投票日の夜は選挙特番を見ながら「俺がこいつを当選させてやった」とニヤニヤすればよいのだ。
ではどうやって意見を集めればいいのか。
そのうち、僕なりの「情報の集め方」や「政治的意見を批判されること」について書きたい。特に後者は演劇と絡めて述べたいと思っている。
なおルソーが唱えたのは直接民主制であり、間接民主制の日本にルソーの思想はそぐわないといった批判や一般意志も批判の対象となっているのは承知である。しかしルソーの影響で民主主義理論が生まれたことは確かであり、彼の思想を参照にすることに全く意味がないとは考えない。むしろ民主制のプロセスに光をあてるならルソーの思想は大いに参考になるのではないか。
ひとまずここで筆を置く。
次回は政治じゃなくて文学について書きたい。
参考文献「社会契約論/ジュネーブ草稿」光文社古典新訳文庫 中山元 訳
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