大学生のための政治入門⑤自民党史
今回は前回の続きです。派閥というものに注目しながら自民党史を紐解くというのが今回の記事の目的です。
佐藤内閣は政治基盤としてかなり強い内閣だったといえるでしょう。約7年8ヶ月(2798日)という最長記録を出します(現首相の安倍総理は9月20日時点で歴代5位の2461日)
その業績についてもっとも有名なのは沖縄返還問題でしょう。
ただ自民党の地盤が盤石かといえばそうではなく例えば東京知事選で美濃部亮吉に、大阪では黒田了一に負けるなど衰退の兆しが見えた時期でもありました。
佐藤内閣の長期化を可能にしたものとして派閥のリーダーであった大野、河野、池田などが相次いで亡くなったことや福田派の支持や佐藤派の田中角栄の働きがあったといえます。
この間、他の派閥でも異変があり前尾派から大平正芳が新しいリーダーになり、旧河野派から中曽根が台頭するなど世代交代が進んだ時期でもありました。
また佐藤内閣時代の特徴として二世議員の増加が挙げられます。すでに述べた個人後援会を基盤に二世議員が誕生します。例えば橋本龍太郎、河野洋平、小沢一郎、羽田孜、小泉純一郎などのちの政界に大きな影響を与える政治家がこの時期に当選します。先ほど述べた通り自民党の選挙基盤は緩みつつありましたが、二世議員はそのなかでも当選率の高い貴重な予備軍だったと言えます。
⑦田中角栄と列島改造
1972年の自民党総裁選では田中角栄、福田赳夫、大平正芳、三木武夫がぶつかり、特に田中と福田がしのぎを削ります。いわゆる角福戦争です。
田中角栄といえば「コンピュータつきブルドーザー」と称された政治家ですが注目すべきは議員立法の多さです。日本では立法提案のうち多くは政府(内閣や官庁)から提出されますが、議員立法は少ない傾向にあります。しかし田中が提出者となって立法したのは33と他の議員と比べ断然、成果を上げています。
安倍さんが石破さんや石破支持の議員を内閣に起用するのを見送ったという報道がありましたが、田中も福田派を冷遇します。
田中角栄といえば列島改造計画などぶち上げ、国民からの人気はかなり高いイメージがあります。
しかし1972年の解散総選挙では288あった議席は271議席まで減少します。ただ依然として多数派であったため田中は特に追及されませんでした。
また田中角栄といえば後年のロッキード事件の影響もあり、いわゆる「カネと政治」のイメージもありますが、自民党政治において派閥の拡大に大量の資金が必要になってきた時期でもありました。こういった資金調達能力に田中は長けていました。
自民党は国民への新しいアプローチを模索することになります。
⑧三木武夫
田中の次に総裁となったのは三木でした。田中に対する批判が非常に強かった当時、福田、大平、三木が総裁に名乗りを上げました。その裁定にあたった椎名副総裁ですが、椎名が指名したのは三木でした。
続きを書こうかと思いましたが日曜日だし、疲れたのでまた次回。