名文メモブログ#政治と文学

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これはブログだが、私の部屋でもある。散らかってるが入りたければ勝手に入ってくれ

民衆の側が自ら武器を持つ、…いつでも権力者に向けられる、という事態になりますと、事情は一変いたします。政治という仕事は、…暴力的な決済を避ける…ことが、その本来の機能と考えられるようになるからであります。しかも、思想の自由を保障しなければなりませんから、…背広を着た政治家がこの仕事をやるのは、そう容易なことではないのでありまして、政治家の資質がきびしく問われざるを得ない。…政治というものを、軍事と切り離して、社会経営の仕事と考える風土は、こういう条件のもとにはじめてそだつのでありまして、最後の手段を権力が完全に独占しているところでは、こんなにきびしい政治の考え方は非常に根づきにくい。逆に(最後の手段を権力が独占している)ところでは、本来社会的な問題が無造作に治安の問題として処理されがちでありまして、それはこういう近代的な政治の観念の不在をありありと暴露するものにほかありません。これは日本の将来を考えます上で、十分注意しなければならない点であります。
福田歓一 近代の政治思想

 

我々はここに二十歳の芥川氏にみられなかった「芸術」に対する動揺を見るではないか。…氏の軽蔑していた民衆こそ、偉大なる創造力をもって、ゲエテをーそして、氏をも乗り越して突進するものであることを認めた時、芥川氏は、小ブルジョアジイのイデオローグに過ぎない氏の文学も、いつかは没落しなければならないという告知を、新興する階級の中に聴いたであろう。…民衆が新しい明日の芸術を創造する。 宮本顕治 敗北の文学

私は現代は建設の神話を持っているのか、それとも退廃の神話を持っているのか知らぬ。私は日本の若いプロレタリア文学者たちが、彼らが宿命の人間学をもってその作品を血塗らんとしているという事をあんまり信用していない。また、若い知的エピキュリアンたちが自ら眩惑するほどの神速な懐疑の夢を…抱いているという事もあんまり信用していない。

小林秀雄 様々なる意匠

 

「話」のない小説を最上のものとは思っていない。が、…最も純粋な小説である。…僕はこういう画(セザンヌ)に近い小説に興味を持っているのである。ではこういう小説はあるかどうか?…近代では…何びともジュウル・ルナアルに若かない。…一見未完成かと疑われる位である。が、実は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。
文芸的な、余りに文芸的な芥川竜之介

 

…今でも俺は深き穢れに沈んでいるんだ。人間というものは恐ろしくいろんな悲しい目にあうもんだよ。…しかし俺は単に将校の肩書きを持って、コニヤクを飲んだり極道な真似をする、虫けらのような奴だと思わないでくれ。俺はほとんどこのことばかり考えているんだ。この深き穢れに沈んだ人のことをね。…つまり俺がそれと同じような人間だからさ。
ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟米川正夫訳)

 

なぜ無神論者がこれまで、神が存在しないことを知りながら、自分をただちに殺さずにすますことができたのか。神が存在しないことを意識しながら、同時に、自分自身が神になったことを意識しないっていうのは、いかにもナンセンスだし、そうでなければ、なんとしたって自分で自分を殺してみせるはずだ。
ドストエフスキー「悪霊」亀山郁夫訳)

 

もし保守主義という場合にバーグに言及するならば、少なくとも、①保守すべきは具体的な制度や慣習であり、②そのような制度や慣習は歴史のなかで培われたものであることを忘れてはならず、③大切なのは自由を維持することであり、④民主化を前提にしつつ、秩序ある漸進的改革が目指される。
(「保守主義とは何か」宇野重規」)

 

リベラリズムの思想伝統が…「啓蒙」のプロジェクトと…「寛容」のプロジェクトの二大契機から成ることについては、思想史家の間でも異論はあまりないでしょう。…啓蒙と寛容それぞれの暗部に通底しているのは自己絶対化です。…他者に対する公正さを要請する普遍主義的正義理念こそ、この自己絶対化の克服を導く価値理念です。(井上達夫「自由の秩序」)

 

民主主義の存在理由は何かというと、われわれが自分たちの愚行や失敗を教訓として学習する政治プロセスを、民主主義が提供してくれるということですね。完璧に頼れる人などどこにもいないが、愚者が自分の失敗から学んで成長することはできる。そのための政治プロセスが民主主義だ、と。
井上達夫「リベラルのことは嫌いになってもリベラリズムは嫌いにならないでください」)

 

我が国は明治以来、西洋思想、西洋科学を輸入した。もちろんその精神への理解も叫ばれたが実際されたのは主として「富強」を生む理由となった精神に過ぎなかった。実用性のみが見られた。しかしそもそも科学とは知性により自然を理解する、芸術と本質を同じくする精神の無償活動である。科学の実生活への応用は科学の結果に過ぎず、目的ではない。芸術の功利性が強調されれば、芸術の堕落を招くように科学もその実用性のみから社会に重んじられるのは、科学の真の不幸である。

中村光夫 近代の超克より

 

全てを取るか、全てを捨てるか、どちらかしかないように思えた。まるで残りの人生ずっと、若くして出会い、若くして愛した特定の人々の自我を持ち歩かねばならず、それらの人々が完全であるかぎりにおいてしか自分も完全になれない、そう運命づけられているかのようだった。そこにはある種の孤独もつきまとう。
ー愛されるのはたやすいー愛するのは難しい。
スコット・フィッツジェラルド夜はやさし」森慎一郎訳

 

 シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書き取り。
シュルレアリスム宣言」アンドレプルト巌谷國士

 

私たちは時を物語れるだろうか、時そのものを、時だけを、それだけを切り離して?…それは不可能な気ちがいじみたこころみであろう!…物語は…時間をみたし、時間を「きちんとうずめ」、時間を「分割し」、時間に「内容を持たせ」、いつも「なにかがはじまっている」ようにする点で音楽に似ている。
トーマス・マン 魔の山

 

つまり、経済力の大きなアメリカを相手とする戦争が困難であること自体は皆知っていたので「専門家の分析が無視された」というのはやや不正確であり、「専門的な分析をするまでもなく正確な情報は誰もが知っていたのに、極めてリスクの高い「開戦」という選択が行われた」と考えるべきなのである。
牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」新潮選書

 

彼は苦しむことを拒絶している。彼は飽き飽きしている。…王様や巨匠たちに飽き、議会に飽き、法皇たちや神父たちに飽きている。彼は幸せになりたがっている。彼は全力でそれを望んでいる。それがたとえ動物のようであっても彼は生きたがっている(カミュ「ジャン・リクチュス 貧苦の詩人」高畠正明)

 

「シテールは現代ギリシャ語でキティラと呼ばれ、ペロポネソス半島の南にある島だが、神話で、愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)が海から上陸した島として知られ、ワットーの画(シテール島への船出)をはじめ、ボードレールの詩(悪の華)、ドビュッシーの曲(よろこびの島)で、美、愛、永遠、悦楽の象徴として描かれ、ゴダールの「パッション」の終わり近くの一景にも登場した。」
テオ・アンゲロプロスの映画「シテール島への船出」解説より)

 

私は私のペンを折ったものへの、復讐を思った。そして政治活動に身を投じました。しかし政党の内幕を知ったとき、政治活動にいや気がさしました。ばくち打ちの社会に似ているからです。
ものにもならぬことを、書いたり、論じたりしても始まらない。
一筋の道路、一本の橋でもよい、何か公共のためになることをやって死にたい。
鈴木東民『市長随筆』

 

おもしろくて受験や勉強に役立つ漫画(倫理・法律・世界史)

今回は少し趣向を変えて受験や勉強に役に立つ漫画を紹介します。

①「ここは今から倫理です」

Amazon.co.jp: 今からここは倫理です

「倫理は学ばなくても将来、困る事はほぼ無い学問です」

「地理や歴史の様に生活する上で触れる事は多くないし 数学の様な汎用性も 英語の様な実用性もありません」

「この授業で得た知識が役に立つ仕事は ほぼ無い」

「この知識が役に立つ場面があるとすれば」

「死が近づいた時とか」「信じられるものがなくなった時」「人間関係がうまくいかない」「私は何の為に生きている?」「『男はこうあるべき』『女はこうしなきゃダメ』とか」「死にたい」

「どうですか 別に知らなくてもいいけど 知っておいた方がいい気はしませんか」

 

高校の倫理教師、高柳は教壇の上でこう言い放ちます。

 

そして倫理の授業に魅せられた悩める生徒たちが、反発しつつも高柳のもとで「倫理」を学んでいきます。生徒たちの悩みは様々です。

 

周りの男性に体を売る女子生徒、「すべて本から学べる」と断言する成績優秀な女子生徒、いじめられっこで教師を目指す男子生徒、親や担任に打ち明けられない性癖を持つ女子生徒…

 

高柳はフランシス・ベーコンを、ゴータマ・シッタールダを、ソクラテスを、キルケゴールを引用しつつ生徒たちの悩みに向き合ってゆきます。

 

これだけならあまり僕自身も魅力を感じないのですが、個人的には高柳もともに真剣に悩む姿が美しいです。高柳は生徒たちの悩みを引き受けながらも、同時に自身もその悩みを吐露し、懊悩し、切実です。

「煙草をやめられない」「悩みのない人間に興味を持てない」「ユーモアがない」

高柳は生徒たちに倫理を説くとともに、自身も倫理的であろうと欲望や未熟と向き合います。

 

受験で倫理を使うことはないかもしれませんが、文系に進むのであれば哲学・倫理は触れざるを得ないでしょう。そうでなくても企業でもコンプライアンスが叫ばれる世の中です。

ただそういった実用性から説かなくても、生きている以上は倫理的問題にぶつからざるを得ません。とても良い漫画だと思います。

 

②「正直不動産」

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登坂不動産のトップ営業マンである永瀬財地は巧みな話術で日々、売り上げを伸ばしていく。しかしあるとき地鎮祭で石碑を壊して以来、嘘が上手くつけなくなってしまい、客の前でも上司の前でも本音しか言えなくなる。その結果、営業成績が落ち、港区のタワマンを手放し安賃貸に住むことになる。悩んだ永瀬は正直不動産として再びトップ営業マンを目指す。

民法借地借家法、賃貸借契約といった日常生活で非常に重要な法律が出てきます。僕は暇つぶしで宅建の資格を取っていたり、民法借地借家法を勉強していたのでとても楽しめました。

これらについて書き出すときりがないですし、第一僕は法律のプロではないのであまり無責任なことは言えませんが、借地借家法の概要だけ簡単に紹介したいと思います。

 

1なぜ借地借家法が存在するのか?

一言でいうと賃借人・借家人の地位が法的にとても弱いからです。その弱さを補うのが借地借家法です。

 

2なぜ弱いのか?

賃借権が債権なのに対し、所有権が物権だからです。

債権とは人に対する権利です。一方、物権は物に対する権利です。

債権は例えば10万円の借金を相手に請求するシーンを想像してください。

物権は例えば家を所有するとか、バイクが盗まれて取り返そうとするシーンを思いうかべてください。

 

3なぜ物権はこのように強いのか

物権は債権に対し「優先的効力」があるからです。物権>債権です。

この具体例として「売買は賃貸借を破る」という言葉があります。(ローマ法の原則らしいです)

売買契約(物権、所有権)と賃貸借契約(債権、賃借権)なら売買契約が優先されるということです。

このような力関係が社会問題に発展しました。それが地震売買です。

地震売買とは耐震偽装ではありません。地震が起きたように借地人の建物が破壊されることから名づけられました。

 

地震売買とは

例えば賃借人Bが地主Aに土地を借りているとします(賃貸借契約)。しかし地主Aが他人Cにその土地の所有権を譲渡した場合(売買契約)、Cに対して賃借権を主張することはできません。所有権である物権と賃借権である債権ならば所有権の物権が優先されるからです。したがって、賃借人Bが建物を建てて住んでいる場合にも、新所有者Cからの建物収去・土地明け渡し請求に応じなければならないわけです。ひどいですね。

もう少し詳しく言うと民法605条とか登記の共同申請とか話は広がるのですが、知りたい方は内田貴民法Ⅱ」(東京大学出版会)227ページをご覧ください。

 

このような地震売買が日露戦争後、頻発し社会問題になります。例えば賃料を上げたい地主が賃借人に賃料の値上げを拒否されたら、ほかの第三者に土地を譲ってしまえば賃借人を追い出せるわけです。

 

どうも文献によると民法典の起草者は借地の際には地上権という物権が使われることを想定していたようですが、現実には地主といった土地所有者の方が経済的・社会的に強く、このような問題が起こったようです。(内田貴民法Ⅱ」p178)

 

5建物保護法の制定

これではいけないと政府は建物保護法を制定し、借地権の保護を図りました。さらに借地借家法を制定しました。この借地借家法の狙いを簡単に言うと「賃借権の物権化」です。債権であった賃借権を物権化することで、物権である所有権と対抗させるということです。

またこれ以降、建物所有の借地権の存続期間を長期化したり、正当事由がないと更新拒絶ができないなど借地人の法的な保護を図ってきました。

 

さてここまで長々とお話しした通り、賃借人は法的に立場が弱く、それを借地借家法が補ってきたということを説明してきました。(ちなみにこの場合、所有権や賃借権を規定している民法が「一般法」であり、それを補う借地借家法を「特別法」という。原則的には民法を適用するが、借地借家となったら特別法を適用するということです。)

 

が、これらの法律を知らなければ不動産屋や地主に言いくるめられてしまうわけです。せっかく法的保護を図っても、情報格差があれば意味がないわけです。勉強って大事ですね。僕は法律を勉強してから契約書など一通り見る癖をつけました。とくに契約書などは両者の合意が必要なので、質問があれば担当者にどんどん聞いて、録音までしておくと後々有利かもしれません。

 

その意味でこの「正直不動産」はとても勉強になる作品でした。

 

③「チェーザレ 破壊の創造者」

Amazon.co.jp: チェーザレ破壊の創造者: 本

今度は世界史です。中世ヨーロッパ、とくにイタリア、ルネッサンス期を舞台にしています。主人公はチェーザレ・ボルジア。イタリア語であるチェーザレラテン語ではカエサルローマ帝国の英雄、カエサルの名を冠された男の物語です。

レオナルド・ダ・ヴィンチマキァヴェッリといった著名人も登場し、大変勉強になります。

漫画もすごいですが、あとがきや用語集が充実しています。監修にダンテ学者の原基晶先生を迎えていたり、マキャベリの研究で有名な佐々木毅東大教授のコラムがあったりと豪華です。

カノッサの屈辱」「レコンキスタ」「ダンテの神曲」など世界史でもよく出るフレーズが作中に織り込まれており、世界史の教科書を眺めているだけより理解が深まります。

 

しかし残念ながら11巻以降が出ておらず、未完です。気長に待ちたいものです。

ざっくりいうとルネッサンス期におけるイタリアでの権謀術数を渡り歩く名家ボルジア家の次男、チェーザレの生涯です。しかし11巻ではまだチェーザレは政治の表舞台にまだ出ていない状況であり、それまでは父の政治を補佐しつつ、大学生活を謳歌するところまでです。それでもおもしろいですけどね。

 

以上で紹介を終わります。

文学を読むこと、総括的に、だらりと

僕は中学生のとき詩をつくっていた。東京の騒擾と活気とは対照的な、微笑的で穏やかで、そして気づかないうちにゆっくりと衰退してゆく自然豊かな地方都市で育った。なだらかな山脈の一筋一筋に日が当たり、そしてその先に空と瀬戸内海が青く光る街。

 

そんな街で文学や文学者の庵を訪ねながら、鬱屈した学生時代を送っていた。

 

たまたま詩を作る機会と師に恵まれ、高校のときは詩作で全国的な賞を二つ戴いた。たぶん今でもネットで検索すれば出てくるかもしれない。文学的豊饒はもう過去だ。

 

この過去の文学的豊饒は今の僕の生存戦略でもあった。

 

僕はこの一年はただひたすら本を片手に部屋に篭って東京に耐えていた。カウンセリングと部屋の往復の生活で、周りに好奇の目で観察されているのではと、必要以上に震えながら歩いた。誰も僕を見ていないのに。

 

やることがなかった。なにかをやりたかった。なにもできなかった。この三重奏から導かれた行為は読書だった。特に夏目漱石をよく読んだ。高校の国語の恩師が愛読していたからだ。よく考えたらあまり夏目漱石を僕は読んでいなかった。

 

自室は塹壕だった。入道雲が落としてくる影の下に生えたコンクリートの塊の一室。蝉の声と滴る首筋の汗。僕は耳を抑えながら空想の爆撃に耐えていた。部屋の片隅で、ありもしない架空の暴力に震えながら、僕は何を考えていたのか。実に平凡なことだ。しかし僕にとって大切なことだ。

 

「作品」というものを考えるとき、それが芸術的価値、文学的価値のあるものか、或いは一過性のコンテンツに過ぎないのか、を判別する線は「問い」or「結論」なのかなと。夏目漱石のほぼ全ての作品を読んだけど彼が悩み続けた「文学とは」或いは「人間関係とは」に明確な結論は出ていない。

 

岩波文庫から出版されている「日本近代随筆選」に牧野信一の「文学とは何ぞや」という随筆がある。確か記憶の限りだが、筆者が不真面目な帝大生だったときの話だ。謹厳な老教授のつまらない文学の授業の最後の課題は「文学とはなんぞや」。重く刻まれたこの課題を筆者は振り返る…。そしていまだにその問いを温めている筆者。そこで随筆は終わる。

 

芸術や文学は問いを立てるだけで、後については読者や受け手に投げている。これが文学の寛容さであり、また掴み所のなさなのかなと。それに対してコンテンツは結論が出ている。「感動」「愛の大切さ」「友情」「笑い」…なんでもいい。しかし作り手のメッセージがほぼ明確だ。受け手はそのメッセージを受け取り、満足し、消費する。けれどそれを振り返ることはほぼない。

 

だから文学を読むときは「答え」ではなく「問い」に注目して読まないといろいろ読み落とすなと。

 

最近の本屋に並ぶビジネス本、啓発本、ダイエット本…全部結論だ。結論しかない。やめてくれ。僕に結論を押し付けるな。やめてくれ。そのしたり顔に反吐がでる。

 

僕が欲しいのは「問い」だ。

答えを性急に出さない「知性」だ。

 

しかしSNS時代、常にアウトプットを求められる時代、いろんな人が答えを発信し、いろんな人が答えを求める。…問いに対する意識が薄れても仕方ないのかな。

 

村上春樹がこの前のラジオで「いろんな疑問を大切にしましょう。僕は若葉マークともみじマークを同時につけてる人がなんでいないのか、とかなんで木枯らしは一号で、春一番は一番なのかが気になります。」と言ってて変な人だと思ったけど、たぶんあの人は「問い」の重要性を理解してる、のかな。

 

まぁ要するに文学を読んでも人生は何も解決しない。問いが増えて不安になるだけ。しかしその不安が人生を豊かにするのかもしれない。不安は可能性だと読み換えたい。

 

しかしコンテンツは怖い。自分の切実な悩みも分類化され、定型化され、処理され、消費される。それどころか人間がコンテンツ化に嬉々と応じる。その先は高速回転する鋭利な歯車群で、ちっぽけな承認欲求なんて粉々に千切れてゆくようにしか僕には見えない。千切れた結果、見下ろす冷笑に嗤いの蜘蛛の巣をかけられて晒される。そして次のコンテンツを探すため、好奇の飛び込み台に立つ人間の背筋の肉を人々の目が逃がさない。

 

惨憺たる鬱病患者の自殺と承認欲求のための鬱演技は等価値だ。ネットの海では。流れて流れて、そして消えてゆく。

 

話は変わる。織田信長の三男、信孝は次男信雄の命令により切腹した。その際、自らの腹に手を突っ込み贓物を引きづり出したという。そのとき飛び散った血がついた掛軸がまだ現存しているそうな。これが僕の思う自分語りのイメージだ。

 

自分語りは贓物の臭いがする。けれど人々はこの臭いが好きだ。獣のように集り、その贓物を綺麗に加工した私小説に感動する。最近はもっと手軽にブログやツイッターでも切腹できる。

 

吐き出してしまった自分と吐き出す前の自分は違う人間だ。もう戻れない。戻せない。お前はもう腹から贓物の垂らしたまま生きろ。哄笑しろ。もう綺麗なお前はいないんだ。さようなら。

 

自分語りとコンテンツ化は相性がいい。教会とオルガンくらい相性がいい。

 

追い詰められて決然と切腹するのではなく、切腹するために火の中に駆け込む人たちもいる。

 

人生はもっと繊細で、切実なはずだ。コンテンツ化に負けないくらい芯のある人生を送りたい。生の意義を愛するのではない。生そのものを愛するのだ。

 

私はこれからいろんな人を傷つけて生きる。生き残る。そしてそのうち過去にした酷い罪状に後悔しながら懺悔する。人を傷つけ尽くしたら、ひとしきり泣く。そして春の老いた微笑のように生き延びる。他者に尽くす。足元の草の花をもっとも大切にする人生を送る。

 

この程度のことはおそらくもう誰かが書いていて、書籍化だってしているだろう。しかしこれらの思考群は私の生活から生まれた。ただひたすら天井と壁と本に囲まれ、陰鬱とした日々の中で…ゆえにその一部を書き残す。文字にできなかった思考よ。さよなら。ごめんな。

裕福な虐待(中学受験)

ツイッターで「東大を舐めているすべての人たちへ」というnoteが爆発的に読まれています。

https://note.mu/tonoike0604/n/n611642c5f61c

 

大受験の過程もそうですが、中学受験とそれに付随する親の虐待に関心が集まっているように思います。地獄の蓋を開けてしまった感じがあります。

中学受験をする人は全国の8%(ベネッセ)、さらに有名私立といえばさらにその一握りです。ほとんどの人にとって身近ではないでしょう。

https://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/chugaku_sentaku/2008_hon/pdf/data_11.pdf

 

コジキ東大さんはおそらく都内で育ったのでしょう。一方、僕は地方出身です。地方ではさらに珍しい私立中学受験について個人的な実体験に基づきながら述べていきたいと思います。僕は地方出身で私立中高一貫校を卒業しました。出身校は東洋経済のつくったランキング「最難関大学に合格の多い高校」で30位以内にいたので進学校卒業生といってよいでしょう。

 

Q1 コジキ東大さんの虐待じみた中学受験、あれは誇張じゃないの?

 

個人的には十分ありうる話だと思います。珍しくはないですね。まぁ僕も後から振り返れば「あれ?虐待じゃね?」みたいなことはありましたし、周りも程度の差はあれ似たような経験をしていました。

もちろんそんな経験なく過ごし、無事合格を勝ち取った生徒もいるのでご安心ください。

 

Q2 なんで親はそんなヒートアップするの?

これはいくつかの分類ができるかと思います。

①親がエリートの場合

「なんで優秀な俺の息子ができないんだ!」という自己と子供が分離できていない場合があります。

②親が非エリート(ただし大卒)

中学受験というものがわからず「とにかく塾や先生の言うことを聞かないと!」と喧しく子どもに発破をかけます。地獄ですね。

③ヒステリック専業主婦

中学受験の家庭は裕福層が多く、専業主婦も多いです。そして教育に関心のある親ほど子どもの教育にのめり込みます。子どもの成功こそが我が人生。鬱屈したエネルギーは中学受験へと投入されます。塾への送り迎え、塾や学校の選別、子どもの時間管理、金銭管理、食事、そして日常の家事…親というより秘書ですね。当初は子どもへの愛情であった教育熱も、いつのまにか消えかかる親のアイデンティティを満たすための道具になるわけです。この子を合格させた私偉い、と。こうしてヒステリック教育ママの完成です。

④周囲の目線

都心であれば周囲との競争、地方であれば裕福層へのひがみやっかみ興味です。どちらも子供に地獄です。

⑤かけてきたコスト

年100万近くの教育費に見合った成績を求めます。(まるで工場みたいだね!)

⑥時代の風潮

おそらくですが僕の生まれた年代(90年代)は大変経済的に不安定な時代だったことが影響しているかなと思います。

バブル崩壊、平成不況、就職氷河期、大手金融企業の倒産…。

親としてはこの不安定な時代を乗り切るために我が子には高学歴になってほしい(願わくば医者)という思いがあるのでしょう。しかし子どもたちがうけた暴力の記憶は一生消えません。

 

⑦公教育への不信

これも根強いですね。本来、近代以降公教育は格差是正を担ってきたわけですが、公教育への不信から私立教育への期待、結果的に「2015年東大合格者数、中高一貫校がトップ10独占」となるわけです。

荒れた公立学校を経験した親からすると我が子は私立に行って欲しいと願うのでしょう。

https://s.resemom.jp/article/2015/04/15/24076.html

 

これらの複合的要因のもと、狂気の受験親は誕生します。

 

それからついでに言うと塾に通う中学受験生は毎週全国模試を受け、毎週偏差値で分類され、習熟度別に細かく分類されます。

僕のときはレベルの高い順にS、C、B、Aに分けられ、さらにその組の中で1組から20組ぐらいまで分けられていました。例えば「Bの7組」みたいな。ざっと80組に分類されるわけです。そこでレベル別に受けるテスト、テキスト、授業、講師が決まっていくわけです。

これを小4からやり始めると三年間、毎週やります。一年が約50週あるのでだいたい150回くらいでしょうか。

 

10歳の少年少女たちが親の凄まじい期待のもと、塾に通い詰め、150回の選別に耐え、受験合格を目指すわけです。

 

Q3地方進学校でどんな感じ?

まず圧倒的に親が医者です。あとは銀行員、自営業、教師、インフラ系サラリーマン、議員、公務員。こんなところでしょうか。もちろん一人一人調べたわけではないですが、体感で生徒の親の三分の一は医者ですね。それが普通だと思って生きてきました。

大袈裟ですが「お前んち、何科?」みたいな世界です。

 

Q3 私立中高一貫校に進学するメリットは?

A周りのレベルが高い

勉強はもちろん、文化的な才能や芸術的な才能、囲碁や将棋、さらにはスポーツでも才能を持った子たちが集まります。親が勉強とともにたっぷり教育費を投じているのもあるでしょう。勉強に関していえば僕の同期の学年トップは高1、高2の時点で東大に受かるレベルにありました。 

他にもある気がしますが、メリットはこの辺で。

 

都内進学校との違い

①母校愛が強くなる

これは都心との違いですが、地方進学校は母校愛が強いように感じます。僕が都内の大学に進学してから都内進学校出身の友人と話していると母校に対し、ドライだなと印象を受けました。話を聞いていくうちにやはり彼らは都内の御三家と自らの高校を比較し、よく言えば客観視、悪く言えば卑下しているように感じました。御三家の人たちはやはり愛校心が強いなと感じます。

 

その点、地方進学校は地方では圧倒的な進学率を誇るので、あまり近くの他校と比較する感覚を持ちません。だから母校への肯定感というか、母校愛を持ちやすいのかなと感じました。(もちろん個人差はあります)悪い方向に行けば鳥なき里の蝙蝠ですが…

 

都内は中学受験校がたくさんあります。僕は都内の家庭教師を5年やりましたが、教え子が四谷大塚の偏差値分布表を見ながら「僕の学校はここか」と偏差値表の下のほうを指差したときの悲しい目が忘れられません。

 

②地方での孤立

孤立というと言い過ぎですが人によっては

・公立小の先生から嫌味を言われる(僕の担任は幸い理解のある先生でした)

・小6あたりから「あいつは違うから」と敬遠される

・友人達と話が合わなくなる

・町ぐるみで注目される

などあります。

そもそも地方で私立中学受験をするって「数年に一人」とかのレベルです。都内なら「毎年クラスの三分の一とか少なくとも数人はするかな」です。そんな珍しいものではない。

 

僕も受験に落ちたら近くのみんなに知られる、恥ずかしい、死にたいとか思っていました。小学生の見える世界って狭いじゃないですか。当時はインターネットの普及も現在ほどではないですし。さらに親によっては小6の追い込み期に学校を休ませまくったり、特別扱いを要求したりするので、どっちもどっちです。

 

<最後に(親、教育、受験業界の人に読んでほしい…)>

さてつらつらと中学受験について個人的な経験に基づいて述べてきましたが、一番述べたいのはここです。

まず親御さん、子どもは「もの」や数字じゃありません。人間です。暴力を振るわないでほしい。特に中学受験は多大なるコストがかかり大人ですら熱くなります。「あんたにいくらかかっていると思っているのよ!」知りません。あなたが決めたことでしょう?

難しいのは暴力を受けながらも中学受験に成功し、大学や就職にもある程度成功してしまうとこのような暴力も肯定されえることでしょう。犠牲者が出て初めて社会は動きます。

そして子どもも親に反論できないのです。経済的にも肉体的にも大人に勝てるわけがありません。

親のプレッシャーは多大な期待の裏返し、山のようなテキストとテストは親の財産のおかげ、そして勉強から解放されれば他の家庭より明らかに裕福な生活…愛情と暴力は紙一重です。そして子どもは暴力を愛情と書き換えるしか生きる術がありません。

 

次に教育業界の皆さん。おそらく中学受験業界に関わっていると「虐待じゃね?」みたいは雰囲気を察することが多々あると思います。しかし日本の法整備では家庭内に干渉することは困難です。学校も難しいですし、その余裕もない。(中学受験ではないですが目黒の虐待事件が記憶に新しいですね)

子どもと密に接し、受験業界に関わる人に家庭内暴力を解決せよとは当然言えませんが、せめて傷ついた子ども達をうまく癒してほしいです。僕も塾の先生が大好きでした。

 

貧困によっておこる虐待もあれば、裕福によっておこる虐待もある。人間の難しさを感じます。

 

冒頭に述べた通り中学受験生は全国の8パーセントしかいません。この中学受験の実態の一部をお伝えすることで、中学受験を考えている親子や受験業界の方、中学受験に関心のある人に参考になれば幸いです。

 

願わくばかつての僕のように死すら一瞬意識するほどの苦しみを背負った中学受験生の微かな光とならんことを。

 

続編「中学受験をしてよかったこと」

http://junildivo.hatenablog.com/entry/2019/01/07/210238

 

 

 

流れて、さ。

マルテの手記を読んだ。見ることに徹した若者は何者にも見られることなく、歩くやうに流れる。流れて。ゆく。

 

言葉が泳ぐ姿だけ感じて、生きたい。ぼうっとする春の風光とか、秋の風の中に含まれる静けさとか、真っ赤な陽を握り潰して飛び散った午前四時とか。でもね、一番大切なのは、細雪の音。

 


でもさ、君の見てるの美しさなの?オナニーじゃない?そもそも君って存在してていいの?骨の中から腐敗の花が咲いてるよ。床に飛び散る白濁の意識。

話題の「日本国紀」を読んでみた。

ジュンク堂池袋店の入り口に「日本国紀」が平積みにされていました。

本当は神島裕子先生の「正義とは何か」(中公新書)を買いに来たのですが、ちょっと読もうかと思い大正〜昭和前期のところだけ立ち読みしました。

 

まず感想としては「あれ?思ったより大人しい」でした。もっと日本賛美🇯🇵な内容かと思いましたが、予想以上に控えめだったというのが本音です。情報量も「山川日本史くらいの情報量+著者の善悪判断」ぐらいでもっとガンガン書き込んでるかと思えばそうではなかった。

 

また内容の正誤についても正直ちょっと思うところはあったのですが一学生の僕が指摘する自信がないので控えておきます。ただ「WW1において欧州大陸で戦闘を交えなかった日本陸軍は近代的な陸戦に備えられなかった。」みたいな記述に対しては片山杜秀先生の「未完のファシズム」で反論可能かなと思いました。

 

それよりも序文のほうが気になりました。

「ヒストリーという言葉はストーリーと同じ語源とされています。つまり歴史とは「物語」なのです。本書は日本人の物語、いや私たち自身の壮大な物語なのです。」

百田さんは歴史を物語だと断言しています。そして執筆の動機を「本来、歴史教育とは、その国に生まれたことに誇りを持ち、先人を尊敬できる内容であるべきです。なぜ、そんな教科書が日本にないのかと思ったとき、『自分で書けばいいんだ!』と気付いたのです」と述べています。

https://www.google.co.jp/amp/s/www.zakzak.co.jp/soc/amp/181112/soc1811120018-a.html

 

僕なりに解釈すると百田さんは「歴史」を愛国心を鼓舞するための「道具」と認識しており、歴史の持つ「物語性」を利用しているというところでしょうか。歴史とはアイデンティティを回復する物語と言い換えてもよいかもしれません。

そのこと自体はどの国も採用しているものなので不思議はないと思います。

そして韓国の「物語」に対し、こちらも日本の「物語」をぶつけてやろうということでしょうか。

 

僕はこの百田さんの試みが3つの意味で争いを生むと悲観しています。

 

①他国との争い

物語と物語は共有し得ないと思います。ましてや国家のアイデンティティをかけた物語です。反発する磁石のように相容れない争いに僕は意味を見出せません。ただ百田本の主張を例えば国家が採用するとなったら大変な問題ですが、今のところそのような目立った動きは見られません。その意味でこの争いはまだ対岸にあります。

 

しかし日本は民主主義の国であり、国民の世論次第では百田本の主張を採用するという道もゼロではないと思います。

 

歴史学との争い

物語である百田本と科学である歴史学の争いです。

百田本に見られた物語はある程度の史料の上に善悪判断を載せているものです。一方ここでいう科学とは「歴史学」であり、歴史学とは「史料を積み重ね、仮説を立て、論理的に実証し、過去の近似値を構築する」という意味です。そこでは出来る限り善悪含めた解釈を希釈しようという学者の努力があります。

このように考えたとき、科学である歴史学と物語である百田本は鋭く対立します。

(もっとも歴史学の立場の人たちからしたら「あんなのと同じ土俵に立たせるな」と叩かれ、百田本の立場の人たちからも同じように叩かれるような気がします。まぁこんな小さなブログがそんなに注目されるとは思いませんが…)

 

③専門知と一般層の争い

ここでいう一般層とは歴史学を学んだことがほとんどない人たちという意味です。この争いは争いというより一般層の一方的な攻撃ですね。ツイッターを見てて驚いたのが百田本を買う人たちの専門家たちへの不信感です。

「歴史を学者から取り戻す」そんなツイートを何件か見ました。

エリートである専門家たちが独占し、国益を損する「歴史」を百田さんが民衆のために取り戻した…ということでしょうか。

(僕自身は専門知ほどではないが、一般層のわりには知識のあるアマチュア層だと自認しています。)

 

このような争いに対し、何を考えるべきか。

 

ツイッターのなかでは「一つ一つ、誤りを指摘していく」ということを書かれていた人を見かけました。重要なことだと思います。あくまで科学的な態度に基づき対処していくことべきということでしょう。

御厨貴先生と牧原出先生の対談にこのような記述があります。

「フランスのメディアには原子力の専門家が登場して、『科学によって怒った問題は、科学が解決する』とはっきりいうわけです。そうはっきり言われると、かえってなるほどと思う。…なのにオルタナティブと称する『脱専門化』の結果、すべてをゼロに引き戻して終わりという、まぁアマチュアリズムの極みですね。」(御厨貴「戦後」が終わり「災後」が始まる」P162)

 

しかし私はこの試みに気をつけるべき点があると考えます。

 

一つは、結局、歴史とは「過去の近似値」にすぎないということです。百田本読者でも東大教授でも結局、過去の近似値しかわからない。限界があります。その指摘をし合うこと自体にまた不毛な争いが生まれる気がしてなりません。

 

また訂正をしても、果たして百田本を信じる人たちは自らの信仰を捨てるでしょうか?物語を受け取った信者が間違いを指摘されるとさらに信仰心に燃えるのは古今よくある話です。

 

故に「あくまで科学的な態度を貫く」ことにプラスして目指すべきこととして「分厚いアマチュア層を増やす」ことだと思います。

 

なんだか経済政策の話みたいになりましたが、分厚いアマチュア層とは二つの条件が必要だと思います。

 

①学者より専門知識はなくとも学問的態度(出典の不確かな説は信じない、ある程度の通説を知っている、史料の解釈が多様であることを実感している、など)を貫き、学者の説を批判的に吸収している。

アイデンティティの喪失を埋めるため歴史物語で安易にオナニーしない。

 

「誤りを一つ一つ指摘していく」試みと同時に「分厚いアマチュア層を増やす」という試みを立場に関わらず行っていくべきだと思います。

 

E.H.カーが「歴史とは過去との対話である」と述べましたが、歴史理解には専門知と一般層の対話も必要だと思います。その対話の潤滑油となるべき存在が「アマチュア」です。

 

そもそもアマチュアという言葉は「愛する人」という意味のラテン語 amator(アマートル)が語源だと言われています。歴史を愛する人を増やすのです。

もちろんプロ(専門家)も歴史を愛していると思いますが、歴史で生計を立てることが求められる以上、自らの歴史愛とは異なる分野を研究したりすることもあるのではと思います。その意味でプロとアマは違うと僕は思います。

 

また私は上に挙げたような争いが全く無駄とは思いません。歴史学者らが事実を発掘し、小説家たちがそれにインスピレーションをうけ、歴史への関心が高まる。そのような好循環が理想と考えます。ある程度の争いは程よい緊張感を生み、結果、素晴らしい研究や小説が生まれるというのが理想です。ただその争い、緊張感が非建設的な罵り合いに終わるなら無駄と断ぜざるを得ません。そうならないための「アマチュア層」です。

 

これで一アマチュアによる感想を終わります。

 

村上春樹と福沢諭吉

福沢諭吉

思想家。慶應唯一の「先生」。1835年に生まれ、1901年に没する。「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」ともいうべき人生を歩んだ。奇しくも明治維新を迎えた1868年のとき、福沢は33歳。そして亡くなったときは66歳。江戸を33年生き、明治を33年生きた、まさに「二生」の人生だったといえよう。

 

村上春樹

小説家。本人曰く、高校のときマラソンの授業で、女の子たちが○○くんがんばれ〜と応援するなか、村上春樹が走るときは村上くん無理しないで〜だったそうだ。(ラジオ番組に出演の際の話)

ちなみに村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』でタイプライターを使って英語で書いた理由として「既成の文体を打破するため」という噂が巷で有名だ。しかし真相は違うらしい。ヘミングウェイが戦争で砲弾が飛び交うなか記事を書いていたというエピソードに憧れて、タイプライターで書いたそうだ。(当時、日本語のタイプライターはなかったらしい。このへんの話は柴田元幸さんの『翻訳教室』に詳しい。)

 

なぜこの二人を取り上げたかというとベストセラー作家という共通点があるからだ。福沢は『学問のすゝめ』が今でも有名だが発売された当時もベストセラーだった。また村上春樹も『ノルウェイの森』などベストセラー小説をいくつも書いている。

 

村上春樹の小説といえば、あの翻訳調の独特の文体だろう。透明感のある、ポキポキとした、すこしぎこちない、しかし頭にスッと入る文体。前述の通り、『風の歌を聴け』はまず英語で書き、それを翻訳して日本語に直したものだ。つまり英語と日本語という二つの言語が交差したところに村上春樹の文体が生まれた。

 

それに対し、福沢の文体はどうだったのか。

『福澤全集緒言』という本がある。

明治三十一年に「福沢全集」(全五巻、時事新報社刊) が出版された。そして全集の第一巻の巻頭に掲げるために執筆されたのがこの緒言だ。全集に収めた著訳書の成立の由来などについて書いている。いわば裏話だ。

 

ちなみにこの緒言は当時、緒言のみで買うこともできた。それは今まで福沢の著作を全て買ってくれた読者はこの緒言のみを買えばいいようになっていたのだ。福沢の合理主義精神の表れとも言えるし、サービス精神とも言える。

 

そのなかで福沢はまずこう述べる。

「先づ第一に余が文筆概して平易にして読み易さは世間の評論既に之を許し筆者も亦自から信じて疑はざる所なり」

福沢先生の自信たっぷりの顔を思い浮かぶようだ。

 

そして福沢の文章論に入る。

「俗文俗語の中に候の文字なければとて其の根本俗なるが故に俗間に通用す可し但し俗文に足らざる所を補ふに漢文字を用ふるは非常に便利にして決して棄つ可きに非ず行文の都合次第に任せて遠慮なく漢語を利用し俗文中に漢語を挿(さしはさ)み漢語に接するに俗語を以てして雅俗めちゃくちゃに混合せしめ恰も漢文社会の霊場を犯して其の文法を紊乱し唯早分りに分り易き文章を利用して通俗一般に廣く文明の新思潮を得せしめんと…」

 

要するに、俗文(一種の当時の共通の日本語)から「候(そうろう)」を削り、漢語を補うのはとても便利だ、雅俗(漢文と俗文)をめちゃくちゃにしてわかりやすい文章を書くことで新しい文明をいろんな人にわからせたということだ。

 

僕が興味深いなと思ったのは村上春樹が日本語と英語を組み合わせ、文学に新しい風をもたらしたのに対し、福沢も漢文と俗文を組み合わせることで文明の羅針盤となるべき文章を執筆した点だ。二つの言葉を使いこなす両者が、うまく言語の間を往来し、ベストセラーを生み出した。

 

ベストセラーの鍵は言語にあるのかもしれないと雑な結論に至り、筆を置きたいと思う。